知ったかぶり・衒学・知らないふり・嘘つきな私。

 つまらない間違いが、私の胸に突き刺さって抜けなくなった。
「私も、ヘーゲル読んだことある」
 嘘ではなかった。確かに、本を開いたことはある。でもさっぱり分からなくて、投げ捨てた。そして投げ捨てたから、その本に価値がないということにしてしまいたかった。価値があるかもしれないものに触れられなかった自分の無能さを認めることより、むしろそれに価値がないのだと決めつけてしまう方が楽だったから。
「へー。ヘーゲルの、どれ?」
 開いた本の名前は忘れた。でも、ヘーゲルの主著の名前は憶えていた。しかしその本は、読んでいなかった。
「法の哲学」
「よくそんな難しいの読めるね。でも、ほんとにちゃんと理解できたの?」
 この時に、私が見栄を張って嘘をついたことを認めればよかったのだ。そうすれば、笑い話で済んだ。
「ううん。ほとんど理解できなかった」
 その中途半端な嘘が、私の胸に突き刺さった。なにが『ほとんど』だ。何ひとつ理解してないくせに。教科書で読んだ内容くらいしか、ヘーゲルのことを知らないくせに!
「やっぱ難しいよね、多分」
「うん」
 嘘つきだ。私は嘘つきで、しかも、くだらない。もしここに私より頭のいい人間がいたら、私を嘲笑うことだろう。もし私をかつて高く評価してくれていた人がいたら、私に失望するだろう。
「君はもっと正直な人間だと思っていた」
 と言われてしまうことだろう。私は、そう思われても仕方がないようなことをしたのだ。

 あぁしかも、そんな自分を正当化しようとしている。
 
 ヘーゲルはドイツ観念論の大家。偉大な体系家とされていて、カントと並べられることが多い。しかし実際のところヘーゲル自身の著作はあまり多くはなく、彼が偉大な体系家とされるのは、彼の弟子たちが彼の思想をまとめて体系化したことによるところも多い。
 特筆すべきはその歴史観であり、有名な言葉としては「ミネルヴァの梟はたそがれに飛び立つ」というのがある。哲学はその時代の終わりに栄えるものである、という意味とされている。

 なんて。全部、教科書、ウィキペディア程度の知識だ。そんなのはその辺の小学生でも調べれば数分で分かることだ。何の自慢にもならない。
 自分を正当化しようとするのは、悪い癖だ。でもそれは、人間の宿命なのではないか? あぁ……
 偉大な人でも、自分の誤りを正当化するために、また別の誤りを犯してしまった人もいる。ヒューム……いや、彼は関係ないじゃないか。
 そもそもなんで彼を思い出したんだ? 彼の本だって、ほとんど読んでいないようなものなのに。
 また『ほとんど』だ。私はまた私に嘘をつくのか?
 でも『まったく』というのも嘘じゃないか。確かに私はヘーゲルもヒュームも『ほんの少し』は読んだ。
 それで、嘘じゃなくなるわけじゃないだろう。あぁつらい。私はなんて不誠実なのだろう。


「ごめん。Sちゃん。前に私、『法の哲学』読んだことあるって言ったじゃん? ヘーゲルの。あれほんとは嘘で……」
「ほーん」
「その、一応ヘーゲルは読んだ覚えあるんだけど、タイトル覚えてなくて……しかも、全然わかんなかったから数ページくらいしか読んでないの。なんかつい見栄張っちゃって、ごめん」
「見栄、ねぇ。黙ってたらいいのに」
「ごめん」
「別にいいよ。○○ちゃん、しょっちゅう嘘つくし」
「え?」
「みんな気づいてるよ。○○ちゃん、いつも知っていることを知らないっていうし。何のために知らないふりするのか知らないけど、馬鹿にされてるみたいでムカツク」
「そんなつもりじゃ」
「じゃあどういうつもりなの?」
「知識ひけらかすのって、よくないと思って」
「でもそのくせ、誰かが知ったかぶりしてたら『あの子知ったかぶりしてるな』って思うんでしょ? さりげなく忠告とか、しないんでしょ」
「ごめん」
「別にいいよ。そういうことされて空気悪くされても困るし。賢くて真面目な子って大変だね。私馬鹿でよかった」

 生きづらいよ。生きづらい。何のために、こんなに苦しまなくてはならないのか。あぁ。私はバカだ。愚かだ。愚かなのに、愚かだと思えば思うほどに、人に賢い人間だと思わせようとしてしまう。勝手に、思われてしまう。
 実際、私は勉強ができてしまう。わざと低い点数を取るなんて、意味のないことをする理由もないし、いい点数を取って嬉しいと思うのも、私の浅ましい本性なのだ。あぁ。しかもそのために、ちゃんと努力してしまっている。努力は恥ずかしい事じゃないとしても、くだらないと思っていることのために努力するのは、恥ずかしい事じゃないか! あぁ……

 助けてほしい。でも誰も助けてくれない。それは、私が誰も助けてこなかったからだ。浅ましい。愚かだ。あぁ。


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