意志の訓練について

記憶や欲望を捨てるためには、記憶や欲望を捨てるための訓練をしなくてはならない。
それはつまり記憶や欲望を「ないもの」として生活することだ。それを死ぬまで続けることを信念として抱き、それに向かって絶えず己を抑圧し続けることだ。

ではそのような訓練に必要なものは何か。そのような残酷な訓練を可能にするほどに「力」を、私たちはどこから調達してくるのだろうか?

別の異なる記憶や欲望によって、なのだ。
私たちが私たち自身の記憶や欲望を悪として殺すとき、私たちは確かに別の記憶や欲望によって、それを殺している。

そしておそらくは……他者の記憶や欲望を、不都合だからと言って殺そうとする場合においても、私たちは私たち自身の記憶や欲望から力を借りてきている。

私たちの「意志」なるものは、おそらく、私たち自身にとって「もっとも強い記憶や欲望」のことを言うのだろう。

正しいことや善いことではない。「善き意志」とは結局のところ、私たち自身のもっとも強い記憶や欲望にとって、心地よい意志のことを言う。

そういう点においても、私たちの意思にとって「善きものは強い」のではなく「強きものは善い」なのであろう。

それにしても「相反するものを調和させ、弱いものが強いものに殺されないようにしよう」という意思はまさに、支配したいという欲と加害されたという記憶が結託した結果の、もっとも強力な私たちの意志であると言えるのではないか……
あらゆる攻撃性への禁止であり、あらゆる弱きものへの生存の許可であり、同時に、自らより強くなる恐れのあるものを徹底的に弱くすることなのではないのか。

認識というものはなぜ、それが成長すればするほどに、自らの主人の価値を貶めるようなことをせざるを得ないのか。

なぜ認識は、私たちが信じているものに対して「いや、それは信じるに値しないものだ」と言わざるを得ないのか。

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