幸せとはなんだろう

 優れた人とともに同じ時間を過ごすことほど素晴らしいことはない。つい忘れがちだが、私たちはそのためだけに生きているといっても過言ではないかもしれない。

 幸せとはなんだろう、と私じっとはひとりで考えていた。
 ここ数日、SNSもテレビもネットニュースも何も見ないようにしていた。両親とすらほとんどしゃべらなかった。
 文章を書くのも控えていた。本は読んでいたが、何度も読んだことのあるお気に入りを繰り返し読んでいただけだ。

 お金持ちになったり、名誉を得たりすることは、喜ばしいことではあるけれど、幸せなことかと問われると、微妙な問題になってくる。私はなぜそうなのだろうと長い間考えていたのだけれど、どうやら人は、人と良好な関係を築き、それを楽しんでいる時が、もっとも幸せであるようだということに気が付いた。
 実際、私が今まで幸せだと思った瞬間を探してみると、そこにはいつも私の好きな人たちがいた。もっとも、私の頭がよくなり、心と体が活発になるにつれ、かつて好ましかった人は、退屈で鈍い人だと思うようになってしまったけれど。

 この時代、付き合っていて楽しい優れた人たちは忙しい。私はなぜ彼らがそんな生活を続けているのかよく理解できないけれど、ともあれ、この時代はそのようになっている。
 私はひとりの落伍者、不幸になった人、落ちこぼれとして、退屈に悩んでいる。私にプレッシャーをかけるような人たちは、ほとんどは私からうまく利益を引き出したい(あるいはその人自身の感情を満たしたい)だけの利己主義者たちなので、気にしても仕方がない。
 ともあれ一番残念なのは、私を思って導いてくれるような人は、身近にいないことだ。私がどれだけ意見を求めても、つまらない回答しか返ってこないし、その回答をもっと深めてもらおうと問答を始めると、相手はすぐに疲れてしまう。考えることに慣れている人は、あまりに少ない。

 人間不思議なもので、自分より多くのものを知り、多くのことを考えている人間に対しては、敬意を払わずにいられないようだ。その相手がどれだけ卑屈で、どれだけ役立たずだとしても、その人間が自分の知っていることの全てをすでに知っており、さらにその先まで知っていることが実感として得られたなら、彼らはみんな困ったような顔をして、頭を低くする。

 私は、ただ対等な関係が欲しい。私と同じ強さの言葉を返してほしい。私は楽しませたり、楽しませてもらったりするのではなく、共に楽しみたい。精神の深みに潜っていきたい。もっと知りたい。知る価値のあるものを。

 ふたりで旅をするように生きていたい。外に出なくても、私たちの心の中には、私たちの目に映るより広い世界が広がっている。私たちがこれまで外で見たきたものすべてが、私たちの内側で、解釈を求めて彷徨っている。
 あぁ、旅をしすぎる人たちは、旅で得たものによって自分を広げることをさぼりがちだ。彼らは、去年の旅で得たものを噛み砕く前に、今年の旅を楽しもうとしてしまう。本当に楽しいのは、旅で得たものを、ゆっくり、静かに、自分の中で新しくしていくことなのに。

 体験や経験は、それを噛み砕いて、捻じ曲げて、私たち自身の心の中で、実際より美しく、価値あるものとして残してこそ、意味のあるものになる。それができる人間がふたりいれば、きっといつか、真理というものが生まれる。真理とは、正しいことではなく、正しくあるべきだと信じたことなのだ。

 私は願いが欲しい。愛情も欲しい。幸せも欲しいし、不幸も欲しい。あれかこれかじゃなくて、あれもこれも。

 人生は難しくあるべきだし、難しい人生の方が、楽しくて、美しい。
 それをしっかり噛み砕いて、自分の中でしっかり理解できるからこそ、そう思える。難しいものを美しいと感じられるのは、その難しさの中に、調和を見出せるからだ。単純さと単純さの複雑な組み合わせが、決して偶然によるものではなく、あるひとつの、あるいは複数の規則に基づいて、運命的に組み立てられているのを、感じ取ることができるからだ。

 あぁ、つまるところ私は、この世界が大好きなのだ。

 世界を日常生活の狭い範囲に押し込んで、俗的なこと以外は全てつまらなくてくだらないと断定してしまう人たちは、不快だ。でもこの時代の大多数はそうだから……いや、おそらく大多数というのは常にそうなのだ。浅ましい、もっともありきたりなものに群がって、それが最大の価値であると信じ込み、それを疑うことにすら、忌避的な嫌悪を感じるのだろう。あぁ、私にだって、そういう時代があったことを正直に告白しておこう。ずいぶん昔の話だけれど、私にだって、神や仏、世界平和や、ロマンチックな恋愛なんかを、信じようとしていたことがあった。

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