すぐ命を懸けたがるフィクション

 私たち人間にとって一番重たいものは命である、と考える人は多いし、私は別にその意見を肯定も否定もしない。それ自体に根拠があるかどうかは知らないし、どちらかというとそれは実感の問題でもあると思うので、理性的に答えを出す必要はない。

 話のはじめあたりに「理性」だとか「根拠」だとか「実感」だとか、ちょっと難しいというか、ややこしい話をして「初心者お断り」みたいな雰囲気を出してしまうのは私の悪い癖。
 ものごとを、ちょっと詳しく考えようとしてしまうのは、私の悪い癖。どうか見逃してくださいな。

 話が脇道に逸れたことに気が付いて「脇道が逸れること」についての話をして、その結果、さらに話が逸れていくというのは、ある意味私自身の人生というか、生き方に通ずる部分があって面白いと思う。あてもなく考え続けること。もちろん、生まれてからずっとこれと付き合ってきているから、それを修正するコツは掴んでる。読み直すことだ。読み直せば、自分が最初に何の話をしようとしていたのか思い出せる。
 きっと読み手は、私の文章をいちいち読み返したりはしないと思う。だから、冒頭の部分をもう一度引っ張ってくることによって、話を戻そうと思う。

 私たち人間にとって一番重たいものは命である、と考える人は多いし、私は別にその意見を肯定も否定もしない。それ自体に根拠があるかどうかは知らないし、どちらかというとそれは実感の問題でもあると思うので、理性的に答えを出す必要はない。

 これをもっと簡単にして、こういう文にしてはじめよう。

 私たちは、命というものを自分たちにとってもっとも重たいもののひとつと考える。

 フィクションは、人の心を大きく動かせる作品ほど、いい作品であると言われているし、そのためには、描く内容のスケールは大きい方がいい。いやもちろん、リアリティを意識する場合は、等身大のスケールにするのだが、それはそれで、その等身大の中で想像しうるもっとも大きな出来事を引き起こすことが多い。
 というか、自分の人生の中でもっとも大きかった出来事を、作品の一部にしてしまうのは、虚構を産み出すうえでの常套手段でもあるので、まぁ何というか、フィクションの中の世界は、どうやっても過激になるのだ。

 人の生き死には、問答無用で人の心を動かす。古代ギリシャの悲喜劇にしろ、各地域の古来より伝わる民謡にしろ、人や動物の生き死にを描いたものは多く、ずっと大切にされてきた。現代においても、フィクションのほとんどは生と死が描かれており、その中でドラマを作り出していく。

 現実における生と死と、フィクションにおける生と死。そこには、どうしようもない「重みの違い」がある。
 現実における死は、それがドラマティックでなかったとしても、人の心を徹底的に揺さぶり、人生を激変させる。たとえ直接的に関係のなかった人だとしても、その人のことを知っていた、というだけで、ものごとを深く考え、自分が死ぬことについてリアリティをもって想像するきっかけになる。
 それに対してフィクションの中の死は、それほど強い影響を及ぼすことが極めてまれである。いや……どちらかというと、そういう「現実における身近な死の体験」を持っている人が、それに関連する物語を読んだ時、それを想起して、深く動かされる、ということが多いように、私には思われる。

 おそらく現代において「生まれたばかりの赤ん坊が死んでしまう母親の物語」よりも「それほどよくは知らない祖父母を看取る物語」の方に、深く感動する人が多いと思う。未亡人の話なども、現代においては、あまり人々の心に深く響かないことだろう。
 悲しいことに、各個人の個人的な経験は異なっており、ある程度の類型はあるものの、それは時代とともに変化していくしかないもので、時代に合わせて共感を得られる作品を書いたとしても、それが一時的に流行したとしても、必ず、どうしようもないほどに忘れ去られ、いつか誰も読まなくなる。誰もその価値を認められなくなる。いやもちろん、歴史を代表する作品としては残るし、その時代の雰囲気や思想を感じ取るうえでの重要な資料にはなるので、決して無意味だとは思わないのだが……だが、人の心に響き続けることはできない、という、そういう話だ。

 派手なアクションや、新しいアイデア、テンポのいい物語の進行などを意識して作られた作品は、もともと人の心を動かすためではなく、人を純粋に楽しませるために作られた作品だ。それは日々入れ替わっていくし、入れ替わっていくものとして、その価値を高めている。一瞬で飽きられる宿命にあるからこそ、その一瞬の間に、どれだけ強く深く愛されるか、ということで競っている。
 私はその土俵で戦うことはできないけれど、そういうエンターテイメント自体を低いものとして取り扱うつもりにはなれない。それもまた、思い出せなくはなるものの、私の心の中に深く刻みこまれているだろうし、人々の生活を支えるものでもあるからだ。

 娯楽作品の中では、人はすぐに命を懸けて戦おうとする。命を懸けているのになかなか人は死なないし、死ぬ時も、ドラマティックに、失われて欲しくないものが失われゆくように、死んでいく。現実においては、全然そんなことはなく、人はあっさり死に、あっさり死んでいるにも関わらず、私たちの心は強く揺さぶられ、時に深淵を覗き込むきっかけになり、時に新しい一歩を踏み出す契機にもなる。

 私は、地味な現実の出来事によって、大きく動かされる人の心に、美しさを感じる。
 物語の世界では、人の心を動かすために、派手な表現、分かりやすい舞台、面白いセリフが容易されるのが当たり前となっている。
 私が不安なのは、そういう、派手さにしか目が向けられなくなっている人が多くなっているのではないか、ということだ。
 身近であること。自分自身の身長でものを見ること。自分の心を実際に動かすこと。誰かの心を、深くまで想像し、実際にそこに、そのように動いているものとして捉えること。
 心は、その瞬間瞬間で、そこにしかないということ。そこにしかないものを、そこに描き出し、永遠にすることこそが、ものを書くということであること。
 私には、表面を作る力が欠けている。ドラマティックな出来事や場面を用意することができないし、いや、言ってしまおう、私は、そういうものを用意したくないのだ。
 人の心というものが、単なる出来事に対する付与物、おまけに過ぎないような世界観は、描きたくないのだ。いつだって、心がメインであってほしい。心があるから、人があるのだと考えていたい。

 私は悩んでいる人間が好きだし、悩まない人間を物語の中に主要人物として登場させることができない。

 エンターテイメントに、悩みは不要であるようだ。それがあると、意地悪だ、と言われることさえある。
 優れたエンターテイメントの中に、哲学的要素が含まれていると、「メッセージ性がある」などと言われる。まるで、虚構の本質は人を楽しませることであり、メッセージは、ないのが普通であるかのような言い方だ。いや、言い方の問題ではなく、実際にそうであるのかもしれない。でも私の見ている世界は、そういう風にできているわけではない。
 世界は心でできている。メッセージで溢れている。届けたい思いと、届かないと思いと。受け取りたい思いと、受け取れない思いと。

 私は、フィクションというものは、それが現実に影響を及ぼさなければ価値はないと思っている。全てのフィクションは、書かれたものは、それが誰かの人生に強く影響することによって、その価値が決定されるものだと信じている。
 私は現実主義者だ。私は、自分の作品で誰かの人生を狂わせたいと思っている。誰かの人生が狂うくらい、強く、大きな物語を書きたいと思っている。何か出来事があるたびに、その作品を思い出さずにいられないような、そんなものを書きたいと思って生きている。

 必要なのは願いだ。「こうあるべき」という、理想だ。たとえそれが不可能であったとしても、それが誰かの心の隅にある限り、それはひとつの影響としての価値を持つ。たとえそれに対する反発心によって、その人が反対側に行動を進めたとしても、それは確かに、その影響の結果なのだ。

 私は最近(今もだが)「私がそうでありたい自分」ばかりに目を向けてきたが、真に必要な考えは「私がそうであってほしいと願う他者、あるいは世界」なのかもしれない。
 私自身がどうであるかなんて、他の人からしたらどうだっていい問題だし、実のところ、私自身にとってだって、どうだっていい問題だ。
 対して、みんなの問題は、みんなの問題だ。それは、否応なく多くの人間を巻き込み、意識させる。
 今後の世界を決定するのは、思いや願いの強さなのかもしれない。


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