共感するのは認識の目の力が弱いからでは

 私たちが一般的に共感しやすい事柄は、自分でもそれと似たような経験をしたことのある事柄だ。
 子供なら親や教師への不満。主婦なら家事での些細な苛立ち。サラリーマンなら、使えない部下への軽蔑や、すぐ怒る上司への恨み。
 そういう、典型的でありふれていそうなエピソードに、人はよく共感する、とされている。

 だが冷静に考えてみよう。それはあくまで、私たちがその経験の解像度を下げ、ディテイルを無視して言い表したとき、その経験が似たようなものとして感じられるから、共感するのではないか?
 逆の言い方をすれば、もしディテイルをしっかり見ることができて「それは私が経験したこととはちょっと違うな」と思ったならば、それはもはや共感とは呼べないのではないか?

 共感とは結局のところ「その気持ちは私も分かる」であって「その気持ちを私は想像している」ではないのだ。そしてその「分かる」というのは常に、決めつけが内に含まれている。その感情を単純化してとらえられ、重要な部分が記憶や認識から剥がれ落ちているからこそ、自分と相手の感情や経験を「同じもの」「共有できるもの」として扱おうとしてしまうのではなかろうか。
 実際、私たちにできることは想像することだけで、そのままの形で認識することはできない。しかし私たちは厄介なことに「認識した」「理解した」と勝手に思い込み、実際にそのように行動してしまう。あるいは、そのように行動する他者のために、実際に自分の認識や感情を単純化して、相手が本当に自分を理解できてしまうようにする。

 相手が自分のことを実際以上に単純に捉えた時、元々あった自分の複雑さを捨て、実際に単純になって、相手から理解されたことにしてしまう人間、というのがこの時代にはたくさんいる。共感してほしいがために、共感できるように、自分の認識の目を弱くして、自分自身に対する解像度を下げて、キャラクター化してしまう。そうすることによって、自分からも相手からも理解されやすい、扱いやすい自分になると同時に、底が浅く、一緒にいてもあまり面白くない人間になる。

 共感しようとすることや、共感されようとすることは、向上心を持つ人間にとって……避けるべき事柄なのではなかろうか? 共感することはともかく、共感できないことに関して、共感しようとすることは、その対象と自己を捻じ曲げることにしかならないのではないか?

 むしろ反対に、理解できないこと、共感できないことを認めたうえで、それをもっとよく見て、認識して、尊重しようと考えることの方が、もっと重要なのではないか?



 別の話。共感というのは、言い換えれば他者に自己の解釈を任せるということなのではないか?
 つまり……自分で自分の感じていることに自信を持てないから、誰かに自分の感情を読み取ってもらって、それによって自分自身の姿をはっきりさせようという相互的な取り組みなのではないか?
 「他人は鏡」というように、相手がどのような態度で人と接し、どのような言葉を話すかというのは、自分自身のふだんの態度や言葉を認識するよりも通常簡単であるから、そのようにして、共感している対象をみることによって、自分の姿を認識しようとしているのではないか?

 共感を欲する人間や、共感をしたがる人間は、実のところ、自己認識の力が弱く、常に自分という人間の姿がはっきりしていないので、それに不安を感じずにいられないのではないか?
 逆に言えば、自己認識のしっかりしている人間、自分と他者との境界をはっきり感じている人間は、一切共感というものを欲しないのではないか?



 私には、強い共感性が備わっている。異常なほど、だ。
 誰かが悲しんでいる姿を見ると、私は反射的に体に強いストレス反応が生じる。胸がきゅっと締め付けられたり、胃がむかむかしたり、頭が痛くなってきたり、涙が溜まってきたりする。
 たとえ対象が演技をしている場合でも、そうだ。だから私は安っぽいドラマが嫌いなのだ。結局ドラマというのは、人の共感性を煽って楽しませようとするものだから、私は自分のそういう気質をコントロールされるのが腹立たしいのだ。いやもちろん、もっと現代のドラマの内容が上品で、大人向けであったならば、私だってそれを見て楽しむのもやぶさかではないけれど。優れた映画に涙を流すのは、嫌いではないから。

 そのうえで、自分の共感性というものが何なのかよく分からない。私の場合共感というのは、強い感情的な何かであるから、自分の意思とは別に体や心が反応する。共感したいと思ったときに共感しないことは多いし、共感したくないと思ったことに対して共感してしまうこともままある。共感性はコントロールできないのだ。だが、自分の共感性のパターンや法則を覚えておくことによって、ある程度それを制御することは可能だと思う。多くの人は、そういうことをしているのだと思うけれど、私は自分の共感性をそのように自分の都合のために使うことをよしとしない。

 私は共感などされていたくない。私に共感している人がいたとしても、そういう人は静かには共感していてほしい。
 私たちは互いに理解したと思い込んだ瞬間にも、鋭い認識が顔を出し「それはお前がそう思い込んでいるだけだろう」と指摘する。だから、私たちは互いへの理解については、できるだけ口をつぐむべきなのではないか? もし……それ以上の、相手への理解を欲しないのなら。

 共感はすぐに誤解する。私たちはそれを認めたくないけれど、事実はそうだ。共感したと思った事柄を実際に口に出したとき、相手が正直で目のいい人間ならほぼ必ず「それは違うよ」と否定される。
 もしかすると、共感という機能自体が、そのような否定のために存在しているのかもしれない。共感したと思って、その言葉を口にして、それを否定されることによって、互いへの新しい距離感と、違うものを尊重するということを学ぶのではないか?

「あなたの感じたことは、あなた自身が大切にしていてほしいけれど、でもそれを私の感じたことと一致しているとあなたが主張するなら、私はそれを否定するしかない。だって、それは本当のことではないから」

 実際、私の共感性は私の理性や認識の目を育むのにとても役に立った。どれだけたくさんの間違いを己の内に受け入れてきたか、という経験が、私たちの理性や認識を直接的に育む。より多くの間違いを知っている人間こそが、間違いの少ない人間なのだ。

 私は私の共感性を全く信用していないから、もっと言えば私の視覚や聴覚、本能的な欲求も何もかも、信用していないから、だからこそ、その不確かなものの生み出す明らかな誤解や誤謬、勘違いや思い込みが……時に、必要になることも知っている。

 実際、もし私があそこで間違っていなければ、私の肉体や心が、取り返しがつかないほど傷ついていたかもしれない、という場面は少なくない。時に、実際の友情でなくとも、互いに友情があると思い込んでいた方がいい場面だってある。いや、友情というのはむしろ……常に思い込みのようなものなのかもしれない。そこにあるのは、より強い想い込みと、より弱い思い込みなのかもしれない。

 もしそうなら、私たちは私たちにとって美しいと感じられる思い込みや誤解の方を取るべきだろう。何を見ても、何を感じても、それが嘘である可能性、私たちに備わった利益をもたらす誤謬である可能性が残るなら、私たちは私たちの好むもの、愛するもの、美しいものをこそ、選んで、見て、感じて、喜ぶべきだろう。


 もしこれが私たちの考えであるならば、私たちの共感性はまた別の意味を持つ。

 つまり、私たちが共感するもの、あるいは共感できるふりをするものは、私たちが自分に近いと思いたいものなのだ。
 逆に言えば、私たちが共感しないもの、あるいは共感できないふりをするものは、私たちが自分とは全く違う存在であり、理解もしたくないし、触れることも見ることもしたくない、と思いたいことなのだ。

 実際、私たちが何にでも共感できる人間であったなら、私たちの精神は一切の趣味や意志、あらゆる自分への認識を放棄して生きなくてはならない。
 私たちは、何を見るか選ぶことができるし、その何を見てきたかということが、私たちという人間の今後の在り方を決定する。
 私たちが共感するのは、より秀でていて、厳しいものであるべきなのではないか? そういうものに共感する力こそが、私たちを強くしてくれるのではないか?
 より劣ったもの、より優しいもの、そういうものに共感するのは、すなわち……私たちの、弱くなりたいという意志なのではないか? 誰かに守られていたいという弱さへの意志なのではないか?

 しかし……私という人間は、おそらく己の弱さを捨てることのできない人間だ。いつまでたっても惨めだし、弱くて、守られるしかない存在だ。
 でもだからといって、それで私の強さがなかったことになるわけでもない。私は、強さへの意思も弱さへの意思も持っている。

 ならきっと……強さや弱さではなく、もっと私を誘惑するもの、つまり趣味、好きと嫌い、そういうものを、私たちの意思にすべきなのではないか?
 私たちにとって、好ましい強さと、好ましくない強さがある。同じように、好ましくない弱さはあまりにも多いが、好ましい弱さだって、この世には少なくないだろう。美しい弱さだって、しっかり目を凝らして探してみれば、きっと見つかるはずだ。
 ならば、私たちはその両方を美しい形で抱えて生きるしかないのではないか?

 共感性が理性や認識の力を育んだように、私たちは自分たちの弱さから、新しい強さを見つけ出さなくてはならないのではないか?

 あぁそうであってほしいと思う。それが誤りだとしても、私はその誤りを信じたいと思うのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?