髪をかき上げるともだち

「それで、何が言いたいの?」
 ざわっと風が吹きぬけて、親友の理沙は前髪をうっとおしそうに払った。一瞬だけ、愁眉の相を浮かべた。
「その……私は一体何なのだろうって」
「それが分かったら、何か変わるの?」
 放課後、校庭に降りる階段に並んでる私たちは、互いに視線を外して、一生懸命ボールを蹴っているサッカー部を眺めた。
「あんな風に、なれるの? ボールを一心不乱に追いかけてさ。傍から見たら馬鹿みたいだけど、本人たちは一生懸命。実際その努力が実ることもあれば、実らないこともある。実らなくても、本人にとって大きな経験になる場合もある。で、自分が分かるようになれば、ボール追いかけられる?」
「意味は分かるけど……」
 下手な比喩だと思ったけれど、言わんとしていることはちゃんと伝わってきた。
 私は「私の文章は一体何なのか」というつかみどころのない質問を、彼女に投げかけた。小説を書いても、随筆風のものを書いても、自分の書いたものは、他の誰かが書いたものとは似ても似つかなかった。それが低いものなのか高いものなのかも、判断できなかった。
 試しに、世間に溢れている「普通」の文章も書いてみたりもした。当然、できたものは「普通」のものだった。捨て置かれていてもおかしくないし、何かの偶然で日の目を浴びても不思議でもない。そんな、微妙なものだった。
 私はそれを、くだらないと思った。労力に見合わないと思った。だから、私自身の文章に戻ってきた。でもやっぱりこれが何なのか、分からない。
「はっきり言ってさ。ふうの文章は、不思議な感じがするよ? いい言い方をすれば、個性的。悪い言い方をすれば、時代に合ってない。私はそもそも、何が世間に受けて何が世間に受けないか分からないし、何がすごくて何がすごくないのか全然分かんないから、っていうか分かってたら私自身がそれやってるわけだし、だから私に聞いてくれたって、なんにもならないよ」
「そうだよね……」
 それでも、こんな捉えどころのない質問に、真剣に答えてくれる友達がいるということが私は嬉しかった。
「それで、ふうはどうしたいの? この、病んでんのか病んでないのかよくわかんないヘンテコ美少女は」
「別に……私は自分がどうしたいのかすら、全然分かんないから」
「分かんないふりしてるんじゃなくて?」
「そうかもしれない」
 私は息をこぼして笑う。
「笑うタイミングおかしいよ。いつものことだけど」
「あはは。私、彼氏欲しいかも」
「だったらあんたの文章は、明らかに彼氏を作る邪魔になってると思う」
「なら、彼氏はいらないかな」
「どっちなんだよ……」
 私はただ、書きたいという気持ちがあるのだけは本当なんだと思う。昔、小説というのはこの見苦しい現実を救い出す唯一の方法だと、そう信じていた時期があった。小説の世界だけは、失望させられることもなく、完成されていて、美しいままで存在できるのだと、そう思っていた。
 だから、私はこの世の救われなかった想いを、全て小説に託して後世に残そうと、そんな夢を持っていた。でもその夢は、あっさり消え去った。
 理由は分からない。でも、いつの間にかそんなことを思うのをやめていた。だから本当は、何かを書く理由もなければ必要もないはずなのだ。私には夢がないし、目標もないし、希望もない。それなのに……この「伝えたい」「産み出したい」という想いだけは、なくならなかった。
「ねぇふう。今何考えてんの?」
 しばらくして、理沙がふとそう尋ねてきた。
「昔のこと」
「昔って、あのこと?」
 自殺未遂のことを指しているのだろう。私は首を振った。
「作家を目指してた時のこと」
「あー。小学生の頃だっけ?」
「うん」
「あんたって、ほんと早熟だよね。高校生にして、すでに夢破れた者の顔してる」
「夢破れるというか、夢を忘れたというか。いつの間にか、なくなってたから」
「そのくせ、書く習慣だけは残ってるっていうね」
「そうそう。そういうこと考えてた」
 また、理沙は髪をかき上げる。私はその仕草が好きだった。私のどす黒い憂鬱を、軽々振り払うようなその強さが。
「別に嫌ならいいんだけど、また作家目指せばいいんじゃないの。私としては、親友が作家をやってるって、ちょっとした自慢になるし」
「そんな簡単なものでもないんだよ。それに、たとえなれたとしても、私はきっと……うまくやっていけない」
「どうして、そう思うの?」
「売れることとか、考えたくないし、人の評価を気にするのも、嫌だから。作家になるなら、そういうこともちゃんと考えないと」
「真面目過ぎるんだよ、ふう。そんなの、あとで考えればいいのに。ただ一番いいものを書いて、適当な新人賞に送るだけ。ダメなら、時代のせいにすればいい」
 私は何で、理沙がそこまでして私を作家にしようとしているのか分からなかった。私はもう、作家業に何らの魅力も感じていないのに。
「なんで、そんなことを言うの?」
「思い付きだよ。深い意図はないよ。傷つけたならごめん」
「いや……ただ私は本当に、もう作家に少しも憧れてないんだ」
「そう思い込んでるだけじゃなくて?」
「なんでそんなにしつこいの~」
 ほとんどわざと、口調を柔らかくして、おどけて見せた。
「私には分からないんだよ。作家になりたいわけじゃないのに、小説とかを書き続けられる理由が。だから、意識的にはそうかもしれないけど、実は無意識的には、そういう未来を望んでいるんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、私は作家にはなれないよ」
「どうして?」
「強い思いがないから」
「馬鹿かお前は! なるのが難しい職業っていうのは、強い思いよりも才能と努力がものいう世界なんだぞ! それくらい分かってんだろ!」
 理沙は言い切った後、笑った。今の強い語調は冗談半分だと態度で示した。
「才能って何だろうね」
「狂ってるってことだよ。で、お前は狂ってるから、才能がある」
「そんな簡単なら、いいんだけど」
「お? 認めたのか、お前。作家になりたいって」
「やめてよ。いやなんだから……」
「もう少しでふうの本音、聞けそうだな」
 何か、言わなきゃいけないなと思った。でも、思いつく言葉は全部ボツ案。
 『もう傷つきたくない』も『社会を憎んでいるんだ』も『どうせ誰にも響かない』も、誤解を生むだけだ。どれも私の言葉じゃない。私の言葉……
「いや、何も言わなくてもいいよ、やっぱり。私には関係ないことだった」
「ここまで踏み込んどいて?」
「だって、どうでもいいもん。ふうの心のどこまで踏み込んだとか、私知らないし」
 羨ましいな、と思った。そんな風に自由にものを言えたら、私もこんな風に……書かないと息ができないような生き方をせずに済んだかもしれない。でもそもそも、なんでこんな……
「また考え込んでる」
「どうして私は、理沙の真似をしようと思わないんだろう」
「ん? どういうこと?」
「私は理沙を、軽蔑しているのかもしれない」
「なんだなんだ。いきなり文学モード入るなよ。ビビるから」
「ごめん……やっぱ、私は思ってることそのまま言っちゃいけない人間なんだろうね」
「ふうの頭の中は見たくないなぁ」
「じゃあ、やっぱり作家になるのも無理だよ。だって作品って、私の頭の中のことなんだから」
「何もそのまま書く必要はないだろ? っていうか、そういうのをうまいこと意識的に調節するのが技巧ってやつなんじゃないの?」
「私、そういうの苦手なんだ」
「嘘つけや。苦手だったら、陰キャコミュ障になってるはずじゃん。ふう、いつだってうまいこと賢者ポジに収まってんのに」
「賢者ポジ……」
「まぁ実際間違ってないけどさぁ。頭いいし」
「意味もなくね」
「意味はあるだろ。少なくとも、私はふうと喋ってんの楽しいし」
「ありがとう」
 もちろん、ちゃんと言い添える。
「私も、理沙と喋るの楽しいよ」
「そういうところも、知性の証なんでしょ」
「そうなのかな」
「知らんけど」
 また理沙は髪をかき上げる。彼女は何度でも、同じ美しさを見せてくれる。でも、時間は少しずつ進んでいて、私たちは少しずつ老いていく。この瞬間だって、永遠ではないのだと思うと、大切にしたいと思えた。
「何、じっと見つめて」
「私、理沙のその仕草、好きだなって思って」
「え? これ?」
 そう言って、もう一度髪をかき上げた。
「そう。なんだか、どんな重いものも簡単に振り払ってしまえる感じがする」
「まぁ落ち込んでも仕方ないしね。落ち込むのが得意なふうからしたら、アレかもだけど」
「落ち込むの得意……」
 声に出して、笑ってしまう。確かに私は、落ち込むのが得意なのかもしれない。ただ落ち込むだけじゃなくて、いつだって上手に落ち込んでいる。人に心配されないように。自分だけを苦しめるように。そして、それをひとつの作品に昇華するように。
「私、落ち込むのが好きなのかもしれない」
「じゃあ落ち込みのプロになればいい」
「何それ」
 私はまた笑った。
「私、ふうのつまらないことで笑うところ、めっちゃ好き」
「だって、面白いんだもん」
 泣きながらでも、笑えるのだ。私は。
 目が合って、見つめ合った。理沙は今……きっと『こいつ、今私のことを考えているんだろうな』と考えている。
「理沙、それは正解だよ」
 試しにそう言ってみる。
「は?」
 理沙は首を傾げた後、意地悪そうに笑った。
「あ、じゃあふうって、レズなんだ」
「違います」
「いやでも今さっき、正解だって言ったじゃん」
「そんなこと思ってなかったでしょ」
「いやいや。こいつ時々めっちゃ見つめてくんなぁって思ってたからさ。レズなのかなぁって」
「私男の子めっちゃ好きだし」
「いやいやいやいやいや! ふう私のこと実は好きでしょ? いやぁ分かっちゃうんだよなぁそういうの」
「勘弁してよ……でもさ、私中学の時からレズっぽいって疑われること多かったんだけど、なんでだろ」
「そりゃ、中性的な外見で、しかも距離感が、ちょっと広いからじゃない?」
「あぁなるほど。恋愛対象だからこそ、近づかれると意識しちゃうから、あえて距離をとってる、みたいな?」
「そうそう」
「うーん……でも女の子と付き合うとか本気で考えたことないけどなぁ」
「あっそう。じゃあ考えてみなよ」
「え?」
「あ、勘違いしないでよ? 私そういうんじゃないからね?」
「彼氏いるもんね」
「うん。まぁでも、純粋な知的好奇心はあるんだよね。女同士って、どんな感じなんだろって」
「まぁそれなら、私もあるかも」
「じゃあレズじゃん」
「違うでしょ」
 会話が止まって、また風がなびく。理沙は髪をかき上げる。
「さて、そろそろ帰ろっか」
 私はゆっくりと立ち上がった。
「で、結局作家にはならんのですか、先生」
「さぁね。考えたくないな、そのことは。めんどくさいし」
「なるなら応援しますよ」
「置いてくよ?」
「あーはいはい。行く行く」
 理沙も立ち上がる。私は、前を向いて歩く。早く家に帰って、ひとりきりになりたいと思った。
 理沙のことは好きだけど、やっぱり疲れるものは疲れる。自由に考えることもできないし、そもそも私は……人間があんまり好きじゃない。
 電車に乗ると、自動的に憂鬱な気分になる。人が多すぎるのだ。外の山の緑を眺めても、気分はあまりよくならない。
「そうやって窓の外眺めてるの、なんか絵になるね」
「やめてよ」
 自分のとっさに出た声があまりに冷たくて、慌てて謝る。
「ごめん、思ったよりも、トゲあったね、今」
「やっぱ私、ふうのことぜんぜん分かんないわ」
 理沙は不可解な私を肯定も否定もせず、受け入れてくれている。とりあえず、今のところは。
「いつか、理沙も私に耐えられなくなるのかな」
 こぼれた本音は、どこに向かうのか。きっと、どこにも行かない。理沙は何も答えなかった。よく聞こえなかったからなのか、声が見つからなかったのか、それとも、どうでもよかったから何も言わなかったのか。
 きっと彼女は、黙って髪をかき上げて前を見るだけなのだ。だから、私が彼女の横にいるかどうかは、どうでもいい問題なのだ。私という存在が彼女にとって愉快ならば、許す。不愉快ならば、髪をかき上げるように、よそによけてしまう。
 だから、理沙は、ただ判断して行動するだけなのだ。人との繋がりでさえ。
 私はそれに……奇妙な気持ちの悪さを感じた。

 いつか、理沙にとって理沙自身の存在が邪魔になったら、彼女は自殺できるのだろうか。
 いやきっと、そういう風にはならない。だから、彼女は私とは根本的に違うのだ。理解し合えないのだ。
「またなんか、変な事考えてるでしょ」
「うん」
「何を考えてた?」
「私たちはきっと、分かり合えないだろうなって」
「そりゃそうだ」
 そのすっきりとした声に、私は笑ってしまう。
 確かに私は今、彼女に救われているのかもしれない。たとえ一時しのぎだとしても。


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