弱いものイジメの正当性①

それを書く理由は

 攻撃性についての物語を書こうと思う。攻撃性。自分でもこれについてはよく分からない。昔からあったような気もするし、ずっと抑え込んできたような気もしている。早い段階で、自分にこれがあることには気づいていたし、気づいたうえで、コントロールできているつもりだった。
 私は誰かを傷つけたいと思っているけれど、誰かが傷ついているのを見るのは嫌だった。自分のやったことが、何かひどいことを引き起こしてしまうことは、誰かの心を決定的に損なってしまうことは、想像するだけで気持ちが悪い。
 いやもちろん、無意識的にそうしてしまったことはあるかもしれない。というか、きっとある。私は私の知らないうちにたくさんの人を傷つけてきたと思うし、もうそれは仕方のないことだと諦めている。誰も傷つけないようにして生きるなんて無理だし、そもそも、誰も傷ついてはいけない世界なんて、もっと気持ちが悪い。

 効力感というか……人を喜ばせた時の快感と、人を悲しませた時の快感は、少し似ている。それは、自分の行動が他者にちゃんと響いているという実感であり、いわゆる、力に酔っている、という感覚だ。裏を返せば、人並み以上に強いそれらの行動動機は、内的な欲求不満を示している。もっとわかりやすい言い方をすれば、大きな無力感を抱えているのだ。

 誰かを喜ばせたいとか、誰かを幸せにしたいとか、ただ何となく思うだけなら、おかしなことではない。でもそうせずにいられないと思うくらい強くそれを望むのは、まず間違いなく、無力感に苛まれている結果だ。自分が何もできていないという現状を、直視し過ぎた結果だ。あぁ。結局私の攻撃性も、そこから出てくるのだろう。

 歴史上に出てくる独裁者たちが、人々を喜ばせることをした後に、人々を恐怖に慄かせるようなことをしたがるのも、そこに理由がありそうだ。善政は、最初は皆喜ぶし、楽しい。でも、人々はすぐに慣れるし、それを当たり前だと思うようになる。だから、自分の築き上げたものをひっくり返すことで、自分が力を持っていることを感じたいのではないだろうか。自分が無力であるということを、忘れたいから。否定したいから。それを現実に、表出させたいから。

 私はきっと、自分の言葉が誰にも響いていないかもしれないという疑いが、私の無力感を増幅させ、攻撃性の増加という結果をもたらしたのかもしれない。それか単に、成長過程において、自分がかつて手放そうとしたり、心の底に押し込めようとした部分が、今となって表面に現れ始めたのかもしれない。何でもいい。

 冷静に考えている時は、苦しまずに済む。理性は感情の苦しみを和らげてくれる。自分が何を感じて、何を考えているか、書いて、書かれたそれを冷静に見て、また新しく書いて、そのサイクルを続けている間は、いろいろな悩みや疑いに頭を悩まされることはない。

 これも一種の逃避行動なのだろう。小説を書こう、と思うこともそうかもしれない。結局は自分自身から逃げ出したいからそうするのかもしれない。きっと、他の人からすればそんなことはどうでもいいことなのだろう。でも私にとってみれば、それよりも重要なことは何もないと思えるくらいなのだ。

 あぁ誰もが矛盾を抱えて生きている。



読んでくれる人へ


 イジメの加害者側の立場に寄り添って描かれた物語など、誰が喜んで読むだろうか。あぁ。どうせ誰も読まないし、読んでくれるのは……まぁ、読んでくれる人は、何人かいるのだから、誰も読まないなどと言うのは、彼らに対して失礼かもしれない。
 私は皆が目を背けるようなことを直視することができるタイプの人間だ。それを描き出すことのできる人間でもある。もちろんそれを受け取ることのできる人間は、少数になるしかないことだろう。不快に耐えることのできる人間だけになることだろう。好奇心や向上心を、不快や恐怖よりも優先することのできる人間だけになることだろう。
 私はそういう人たちに、敬意を払おう。私の文章を読んでくれるから、という理由がひとつ。もうひとつは、そういう人たちはきっと、これまでそれなりに苦労をしてきただろうし、これからもきっと苦労をして生きていくことだろうから。あらゆる苦労は、それが大きいものであるならば、それだけで尊敬に値する。私はいつも人を軽蔑しているというけれど、それは無知ゆえの軽蔑だ。実際にその人と関わってみると、たいてい私はその人を軽蔑しながら、もっと大きな尊敬をもって接せずにはいられない。その人の人生が見えれば見えるほど、私はその人を愛するようになる。欠点は軽蔑する。無知も、愚かさも、軽蔑する。でもその苦労や、痛みまでを軽蔑はしたくない。その人の能力は軽蔑する。その人の言葉は軽蔑する。その人の態度も軽蔑する。でも、その人の過去までは軽蔑できない。未来も、軽蔑できない。
 私はそういう人間なのだ。


本編①


 胸に響く言葉が好きだった。いきなり殴られたときのように、聞いただけでくらくらするような言葉が好きだった。
「お前は、自分の分からないことをすぐ否定するよな」
 ある友達から、男の子みたいな話し方するよね、と言われたときに、私は笑いながらそう答えた。そのときの、その子の顔は面白かった。その子は「ごめん」とすぐに謝った。
 ある時、クラスの友達が、急によそよそしくなったことがあった。私はそのとき、皆の前で「なんでそんな恥ずかしそうにしてんの? そんなに、同じ人間のことが怖いのか」と言ってやった。
 私のことが明らかに嫌いな子には「お前が私のことを嫌いで私のことを嫌ってるのがお前だけじゃないように、お前のことが嫌いなのも私だけじゃないぜ。みんな優しいから、私と違って黙ってるけどな」と言ってやった。その子は疑心暗鬼になって、周りに当たり散らすようになった。友達をずいぶん減らしたようだった。見ていて愉快だった。
 下品な話をしている男子たちに「お前ら、そんな話ばっかりしてるから女子から気持ち悪いって思われ続けるんだぜ。しかもそれ、どれだけ年とっても変わらんからな。マジで」と言ってやった。普通に落ち込んでいて、面白かった。
 すぐ綺麗ごとを言う学校の先生には「先生は結局、いつも誰かに命令されてて、それに従わなくちゃいけないから、生徒たちに命令して、従わせたいんだろ? 誰かにいつも支配されてるから、子供っていう自分より弱い立場の人間を、支配したくて仕方がないんだろ? 少しくらいは自覚した方がいいと思うな」と言ってやった。顔を真っ赤にして怒ってたが、私が「ほら、あんたはそうやって大人げなく子供に対して感情的になるんだ。社会人失格だな」と言うと、結局教室を飛び出して、どこかに行ってしまった。しばらくして、学校に来なくなって、別の先生がやってきた。噂によると、病んで休職することになったとか。結局戻ってこなかった。愉快なことだ。
 駅で布教活動してる人たちには「あなたのやってることは全然宗教的な感じがしない」と言ってやった。「結局群れて、安心したいだけじゃん。もうすでに救われてんだから、宗教なんていらないじゃん」と言ってやった。ぽかんとしてた。間抜けすぎてもう、笑うこともできなかった。
 という妄想。

 現実の私は、いつも言いたいことを黙っている、普通の優等生だった。

 自分より弱い立場にある人間を苦しめることに喜びを感じ始めたのはいつ頃からだろう。考えても思い出せない。私は、自分より高い立場にいる人に何か意見を言うことができないから、その代わりに、自分より低い立場にある人に理不尽なことを言って、無理やり言う事を聞かせるようにしてきた。面白そうだな、と思うことは何でもやった。彼女らは、私が何をやっても私のことを恨まない。何も言い返してこないし、まるで、すっごく複雑なお人形みたい。
 イジメはダメなことだ、と皆が言う。そりゃそうだ。ダメなことはダメだ。だから、バレないようにする。皆そうしてる。何かものを盗んでも、それがバレなきゃ、何の問題もない。バレるのは、そいつが間抜けだから。ちゃんと注意を払っていなかったから。欲望をコントロールできていなかったから。馬鹿なことだ。
 どんなことをしても、それが罪だと思われなければ、罪ではないのだ。だから大事なのは、皆に自分がいい人だと思われていることであり、誰かを傷つけたいときは、傷つけてもいいだけの大義名分を用意することだ。そして、もっと大事なのは、やり過ぎないこと。周りから見て、じゃれあいで済む範囲で済ませること。あとで優しくしてあげることによって、憎しみだけを抱かせないこと。

 私は悪い子ではなかった。私は、周りからいい子だと思われていたし、実際いい子だった。たとえ自分より馬鹿なやつでも、年上だったり、人気がある人には、絶対に逆らわないようにしていた。人のアドバイスには従うようにしてきたし、してはいけないと言われたことは、その人の前ではしないようにしていた。何か咎められるようなことがあっても、とりあえず困った顔をして、それでも何か言われるようであれば、泣いたふりをする。そうすれば、誰もが私のことを許した。馬鹿ばっかりなのだ。この世の中は。

 性格が悪い、と言われたことはなかった。気が強い、と言われたことはある。多分、対等な関係にある友達に対しては、結構遠慮なく意見を言うからだと思う。当然、相手の意見が自分の意見と違っていたって、何とも思わない。私がひどいことを言って、それで単純に傷ついて、やり返してくるような相手には、私は心の底から親切に接する。それができる子には、私は敬意を払う。というか、争いは何の意味もないから、私は好きじゃない。疲れるのだ。だから、争いが生じない、一方的な関係の時のみ、私は誰かを攻撃する。何を言っても、言い返してこない子にだけ、ひどいことを言う。
 あぁそうだ。言い忘れていたが、私のやっていることは、世間的には「イジメ」に該当するらしい。私は別に、集団で誰かに攻撃したりしてるわけではないけれど、たとえ一対一の関係だとしても、それをされてる側が「イジメ」だと思っているなら、それは「イジメ」と言えるらしいから、やっぱり私のやってることは「イジメ」なんだと思う。それの何が悪い? その子以外には、誰にも迷惑をかけていないし、その子が傷ついてるのも、将来的にはきっと意味があることだ。弱いと一方的に搾取されるというのはこの世の中の変えようのない法則であるし、それを若いうちに身を持って体験しておくというのは、重要なことだと思う。だってそうでしょ? 大人になってからいきなり「強くなれ」なんて言われたって、どうしようもないし、その時の搾取は、本当にひどいモノなんだから。朝から晩まで休みなく働かされたり、無理やりお金のために好きでもない人といやらしいことしなくちゃいけなくなったり。イジメだって、子供同士のアレの場合は保護者が出張ってきて色々なことが起こるけど、大人同士の場合は全部「自己責任」だ。弱い大人は、誰にも守ってもらえない。ただ野垂れ死ぬだけだ。だから、世の中がそういうことになっていることを、私が彼女に教えてあげているのだから、ある意味ではウィンウィンの関係なのだ。
 私は、この欲望を満たすことができて嬉しい。その子はきっと苦しいけれど、その苦しみのおかげで、将来の苦しみが軽減される。何が悪い? 私のやっていることは正当だ。でも、周りの人間は私がどれだけ説明しても正当だと思わないだろうから、私は黙っている。みんな馬鹿だし、くだらない非現実的な思い込みをもとに生きていて、自分自身がどれだけ悪い人間か気づかずに、自分のことをいい人だと思い込んで生きている。そんな連中に何を言ったって無駄だから、私はただ、素直に彼らの言うことに従っているふりをしているだけでいい。人生そんなもんだ。それがずっと続いていくことだけは本当なのだから、できるだけ自分の欲望に従って生きるのが「正解」だろ? それが、どうしようもない「正解」なんだよ。大人の言うことは全部、私たちの欲望を抑えつけて、自分たちの欲望を満たすためにあるんだから、結局、相手の自分勝手のために自分の自分勝手を我慢するなんて、奴隷じゃないんだから、馬鹿みたいなことなのだ。


思うこと


 この主人公をどう扱えばいいのか、私には分からない。いつもそうだ。私は先にキャラクターを用意する。
 ひとりのキャラクターを細かく描いていくと、自然とその周囲の人間たちも浮かび上がってくる。人間というのは、空想の世界ですら、ひとりでは生きていないということなのだろう。関係性の中で存在する生き物なのだろう。(でもそれなら、私自身はいったいなんなのだろう……まぁそれはどうでもいいことか)
 きっと、この主人公を憎めないと思う人は少なくないと思う。共感する人だって、いるかもしれない。
 逆に、気持ち悪いと思う人もいると思う。大嫌いだと思う人もいると思う。そういう気持ちが強すぎると、これを書いている私自身が、そういう人間に近い人間だと決めつけて考えることにもなりそうだ。そういう人もいるかもしれない。
 ともあれ、私が読み手に要求するのは、その人自身の感じたことを大事にしてほしい、ということだ。私のことを悪人だと思うなら、そう思っていて欲しい。私を疑ったり、憎んだりせずにいられないなら、そうしていてほしい。私のことなんて忘れて、ただ物語に集中したいなら、そうしてほしい。読み方は、その人自身が一番感じやすい読み方でいい。誤読なんて、どうだっていい。私だって、自分の書いたものをちゃんと読めないんだから、せめて、その人自身のレンズでものを見て欲しいのだ。偏見の目で、見てくれ。その偏見を大切にしてくれ。だってそうしてくれないと、私の偏見は、存在してはいけないことになってしまうから。

 そうなんだよ。だって、この物語は、私の偏見を肯定する物語なのだから。

 つづく。


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