文章を読むのは難しい

「文章を読むのは難しい」
 私は常日頃そう思う。

 このことに気づけたのは、中学校を卒業した後だった。
 私はこんな風に言いつつも、国語は基本的に全く勉強せずとも常に満点に近い点数が取れるタイプの人間だった。
 毎日日記をつけていたのもあるし、小説も書いていた。読む量も人並み以上ではあったし、最近の本よりも小難しい昔の本を読むことが多かったから、そもそも読むのが早かったのだ。
 そして、同じ文章を何度も読み返すのも癖になっていたから、国語のテストは短くて簡単だった。

 デカルトは自身の著作である『方法序説』を『六回も読み返せば、誰もが理解できるはずだ』と言った。それが正しいかどうかはともかくとして、国語のテストは確かに六回も読み返せば、ほとんど誤読せずに済む。もともと分かりやすい文章を選んでくれているのだし、制限時間もたっぷりある。ゆっくり読んでゆっくりと説いていけば、点数は取れる。

 ともあれ学校に行かなくなってから、読書をする時間が増えた。昔読んだ本を読み返す機会が増えたのだが……自分がその場で著者の言わんとしていることのほとんどがくみ取れていないことに気が付いた。
 ひとつひとつの単語の意味、文脈、何が主張で、何が例なのか、ちゃんと理解せずに読み進めていることが多いことに気がついた。
 そして、どれだけ気を付けても一度読んだだけでその本の全てを理解することなどほぼありえない事なのだということに気が付いた。

 そして理解というのは、あくまで読み終わった後、目をつぶってその本の内容を記憶から掘り起こしている最中に行われるということにも気がついた。読むだけではいけない。読んで、考えなくては。

 おそらくそれはすぐにやらなくてはならない、というわけではないだろう。しかし私は記憶力があまりよくないから、記憶が新鮮なうちに、自分の中で学んだことを分解したり接続したりして、理解を深めなくてはならない。

 本を読むだけなら簡単だ。文章を上から下に流すだけなら、何の苦もない。テレビニュースを聞き流すのと新聞を読むのは似ていて、そういう情報の入手には、ほとんどエネルギーを使わない。しかし得るものはあまりにも少ない。

 対して、本と向き合い、作者と語り合うというのはとても難しい。ずっと相手の目を見て難しい話をよく聞く、ということに少し似ている。ちょっとでも注意を逸らすと、相手の言っていることが全くわからなくなる。ついていけなくなる。
 ただ会話と違うのは、いつでも自分のタイミングで戻ったり進めたりできるということだ。人は自分をいつでも待ってくれるわけではないが、本はいつでも自分を待っていてくれる。早送りだって自由にしていい。

 文章の内容をよく理解するということ。それは人が思っているほど簡単なことではない。
 いつもいつでも文章を集中して読み、理解できると豪語する人ほど、その理解が浅いうえに勘違いも多く、私のような人間をうんざりさせる。
「あの本の作者はあなたよりずっと深くまで考えていましたよ」
 その言葉を何度飲み込んだことか。たいてい「答え」というのは、それがあったとしても、言葉にできないほど難しいものなのだ。
 学校のテストを解くときのような読み方すらも、ほとんどの人はしていない。文章をよく読まず、理解したつもりになる。
 私自身、少しでも気を抜くとそうなってしまうことを知っているから、心の底から、文章を読むのはとても難しいと思う。

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