性的マイノリティについて考察しようと思ったけど脱線しまくった


*前半はほとんど無駄話です。読みづらいと思います。自分でも「アホちゃう?」って思います。


世間一般で言われている性的マイノリティの問題についてはここでは触れない。
ただ私自身の性にまつわることについて自己省察をするだけだ。

私は自分が女性であるという自覚を持って生きている。体が女性だし、性格も女性の中では男性よりだと思うけれど、男性と比べればはるかに女性的であると感じている。
「女っぽくない」と言われたことは何度かあるけれど、「男っぽい」と言われたことはこれまで一度もない。

妙に理屈っぽくて低くよくとおる声ではっきり喋るところは、自分の個性だと思っているから、それは自分の性自認なり他者からの印象なりとはあまり関係ない問題と思っている。

恋愛における欲求については……これは難しい。

正直私は、友達や家族としての「好き」と恋人や夫婦としての「好き」の区別がうまくつけられない。

好きだから触れたくなるし、もっと知りたくなる。そこに性別や年齢の垣根はないような気がする。

私は人との距離に関して慎重な性格だから、いきなり近づくことはないし、相手から急に近づかれても、その分離れようとする人間だ。時間をかけてゆっくりと関係を育むのが好きだから、自然と落ち着いた関係しか出来上がらない。

そのうえで、私が仲良くなって、好きだと思った人が何人かいる。
「父」「母」「四つ上の親戚の兄さん」「ひとつ上の友達(女)」
これだけ、か。私の人間関係は、広いようで狭いのか。中学生の時の友達は、もうほとんど連絡を取っていないし。
あの子たちは私のことをあまりよく思っていなかったし、私もあの子たちのことをあまりよく思っていなかった。別に性格が悪かったわけじゃない。合わなかっただけだ。

話が脱線したから、戻そう。男の子に惹かれることはあっても、長続きして一か月だった。ずっと見てると飽きてくるし、実際に話をすると、なんだか気持ち悪いと思ってしまうのだ。
告白してきた男子と試しに付き合ってみたこともあるけれど、まぁ結果は酷いものだった。彼は私に何を期待したのだろう? 私が仲良くなろうと、どれだけ言葉を重ねても、彼の方はしどろもどろになるだけだった。それで私は困って、さらに気を遣って、彼も気を遣われていることを察してプライドを傷つけられて……そして私のことを嫌いになって、他の男子に悪口を言った。
女々しすぎだろ……と思ったが、私はそのことについては誰にも何も話さなかった。
聞かれても「合わなかっただけだよ」としか答えなかった。

意味のないことは言わない。ずっとそうやって生きてきたから、今更こうやって意味のないことを吐き出すことで快感を得ているのだ。

身近な人間に聞いてもらえるほど、私の愚痴は軽くないから、こういう場所に刻み付ける方がマシだろう。

……かつては聞いてくれる人がいたんだけど、その人は死んでしまったからなぁ。
まぁその人のことは、今はいい。

ヘンテコな人生だ。私の人格がヘンテコなのは、ヘンテコな道を歩んできたせいで、私自身のせいじゃない! ということにしておこう。


話を戻そう。酷い脱線癖だ。これに関してはとても女の子らしい(笑)

私は昔から少女漫画も少年漫画も青年漫画も一通り友達に勧められるがままに読んできた。純粋に自分の知らない世界は面白いと思えたし、それを描いている人の努力というか、技術というか、そういうものに驚いたり尊敬の念を抱いたりもしていた。でも共感については、難しい部分があった。

私は、すぐくだらないことで仲違いして、またすぐ仲直りする漫画のキャラクターが愚かに見えて仕方がなかった。
というか、現実の友達同士の喧嘩も、馬鹿みたいで見ていられなかった。感情をそのまま行動に反映させてしまう人の気持ちが、よくわからなかった。
私は昔から自制心が強い人間で……いや「怒り」が分からない人間だった。教室で泣き始めることは結構あったから、別に我慢ができる人間ではなかったけれど、人を傷つけたり、苦しめたりすることには敏感な人間だった。だから酷いことをされても、泣くばかりで怒ったりはしなかった。私の代わりに誰かが怒っても、私はすぐに怒っている人に「大丈夫だよ。もう大丈夫」となだめるタイプの人間だった。
実際、怒って誰かを攻撃しても争いは広がるばかりで、誰かが我慢すればそれで済むことが多い。
だから私が原因で酷い争いが起こったことは一度もないし、私が巻き込まれたことでも大体私が争いをうまく諫めていると自分では思っている。
仲裁を頼まれることは多かったし、実際私が仲裁をするとうまくいくことが多かった。私は公平だし、自分を犠牲にできる人間だったから。
感謝されることは多かった。でも私に感謝する人の多くは、私のことが好きじゃなかった。彼らが感謝をするのは私が好きだったからではなくて、私が役に立ったからだった。

あぁまた脱線。私、私、私、私。自分のことについてはいくら語っても語り足りない。結局私は私が大好きなんだろうな。
はい。


結局言いたいことは何か。
ここまで複雑で奇妙な人間だと、自分がどのような性別であるとか、恋愛対象が何かとか、そんなことが全てどうでもよくなるのだ。
私は自分がマイノリティであると思ったことはない。マジョリティであると思ったこともない。
私は自分が単独であると考えている。誰もが本質的に単独であると考えている。

私は、目の前にいる人間が男性であるか女性であるか、認識はするが重く捉えない。それはその人の無数にある属性の一つに過ぎない。
「男か女か」
「背が高いか低いか」
「肩幅が広いか狭いか」
「眉が太いか細いか」
「ほくろが多いか少ないか」
それらは全部属性に過ぎず、どれかひとつを取り上げて重くとらえるのは、奇妙なことだ。
それを「コンプレックス」と呼ぶ人もいる。私にとっては、あまり興味がない事柄だ。

だから、ちょっと他の女の子と違うとか、他の男の子と違うとか、どうでもいいのだ。
私は私だから私なのだし、その人はその人だからその人なのだ。

でもこれは、社会から何かを押し付けられたりすることが比較的少なかった私だから言えることなのかもしれない。
「女の子なんだからこうしなさい」とか、そういうことを言われ続けた人は、きっと私のようには思えないと思う。

一般論を押し付けられたせいで余計に苦しんでいる人を見ると、私は世を呪いたくなる。もっと自然に、自分らしくあることが許されたら、どんなにいいか。

でもそれは、現実生活を営むうえでそんなに簡単な事じゃない。
「周りの人間の言うことを気にしない」というのは、とても難しい事なのだ。そういうそれぞれの現状を無視して「あなたはあなたらしくあるべきだ」などと言うのは、あまりにも一方的すぎる気がする。

でもそれ以外に、言えることはないのだ。

この世にいる人間の言い分のほとんどは間違っていて、「周りの人間の言う事」は聞くに堪えないことが多い。

その中で暮らすのは、息苦しいよ。やっぱり。

私は狭くて暖かい、思いやりのある場所で生きていたい。

そういう場所を探すか、いつか作ることができたらいいな。

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