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怖い話『静かな電車』

 私はその日、とても疲れていて、仕事帰りの電車の中で眠ってしまっていた。隣にいた人にとんとん、と肩を叩かれて目を覚ますと、自分がその人に寄っかかってしまっていたことに気づいて、少し恥ずかしくなった。
「す、すいません!」
 しかもそのお兄さんは結構容姿が整っていて、少し困ったような表情もまた……何というか、魅力的だった。私は一瞬だけ「運命の出会い」みたいな言葉を思い浮かべたのだけれど、周囲の様子を見渡して、そんなことを考えている場合ではないのに気づいた。
「俺もさっきまで寝てたんだけど、いつの間にかこんなことになっていたんだ」
 お兄さんの声は震えていた。今にも泣きだしそうなくらい、不安な声で、私まで恐ろしくなった。
 私たち二人以外、誰一人電車の中におらず、音もない。でも、電車が走り続けているのは分かる。ガタガタと揺れているのだ。揺れているのに、音が一切せず、しかも外は、トンネルの中を走っているかのように、真っ暗。
 私は自分の頭がおかしくなってしまったのかと思って、自分の頭を何回か叩いてみたが、状況は変わらない。
「た、た、多分、大丈夫だから」
 お兄さんが無理しているのは明らかだった。でもその、男らしくあろうとする姿が、少し私の心を落ち着けてくれた。
「これ、どういうことなんですか……」
「分からない」
 私たちは二人は、立ち上がってあちこち見て回った。どのドアも、開きそうになかった。この車両の中に、完全に閉じ込められている。時々電車内の電気がぱちぱち、と消え、真っ暗になる。そのたびに、叫び声をあげそうになるが、かろうじて心を強く保って静かにしようと心掛ける。
 何かがない限り、静かにしなくてはならない。そんな圧力を感じさせるほどの、静寂。揺れているのに。つり革を持たずに突っ立っていると、よろけてしまうくらい揺れているのに。

 少しずつ、電車の速度が落ちているのに気づいた。それに気づいたとき、私は希望と恐怖の両方を感じた。私とほぼ同時にそのことに気づいたお兄さんも同じ様子だった。

 ついに電車が完全に止まったとき、相変わらず音は聞こえず、外も真っ暗闇だった。扉が、すっ、と、何の合図もなくいきなり開いた。私たちは、ドアのそばの手すりをしっかり握ったまま、その真っ暗闇の空間に頭を出した。
 足場があるかどうかすら分からない。一歩踏み出したら、奈落の底に落ちてしまうような、そんな真っ暗。恐ろしくて、私たちは外に出る気にはなれなかった。
 その瞬間、「降りろ!」というしゃがれた男の大きな声が轟いた。「降りろ! 降りろ! 降りろ!」
 私たちは思わず耳を塞いだ。あまりにも大きな声で、耳が壊れるかと思った。
「降りろ! 降りろ! 降りろ! 降りろ!」
 ずっと同じ言葉の繰り返しなのに、決して機械的な声ではなく、実際に誰かが激しく命令しているように聞こえた。
「降りろ! 降りろ! 降りろ! 降りろ!」
 お兄さんは「もうやめてくれ!」と叫んだ。だが、その声はすぐそばにいる私の耳に微かに聞こえるばかりで「降りろ! 降りろ! 降りろ! 降りろ!」鳴りやまない声が、私たちの心を蝕んでいく。
「降りろ! 降りろ! 降りろ! 降りろ!」
「降りる! 降りるからやめて!」
 私は耐えかねて、そう叫び、思い切って暗闇の中に足を踏み出した。何も見えなかったが、点字ブロックを踏んだのを感じて、そこが駅のホームであるということを確信した。
「降りたな」
 低く、深い声が、私の背後から聞こえて、振り向いた。何もなかった。
「ま、待って!」
 再び明るい方に向き直ったとき、お兄さんは絶望的な表情で手を伸ばしていた。私は必死になってその手を握った。その瞬間、エレベーターが壊れたときのように、電車が落下した。いや、落下したというより、つぶれたように私には見えた。上から何か大きなものに押しつぶされ、私の目の前には、ただ何もない真っ暗な空間と、もはや誰のものでもない、重たい腕だけが残った。それが、さっき親切にしてくれた人の腕であることを思い出して「ぎゃあ!」と情けない声を上げながら、その手を放し、しりもちをついた。その腕は、奈落の線路に落ちて消えていった。
 私は、どこに足場があるのかも分からず、一歩も動けずにいた。尻もちをついたときの手すら、動かしたくなかったが、勇気を出して、尻と足は動かさずに、手だけで状況を確認した。
 そこはどう考えても、駅のホームだった。何かがこびりついているのを手で感じたからそれを爪でほじってみて、それが誰かの吐き捨てたガムであることに気づき、私はそれを必死になって服で拭いた。
 そのような行動は、今思えば、ただ恐怖を紛らわせたかっただけだと思う。私は完全に怯えていたし、このあとどうすればいいのか分からなくて、錯乱していた。
 これは悪い夢だ、と信じたかった。

 いつの間にか、新しい電車が私の目の前に現れ、その中には白いワンピースを着た小さな女の子が怯えた表情で座っていた。その眼には、ほんの少しの安心が浮かんでいて、その時私は自分が生きていることを思い出し、虫が電灯に誘われるように、ふらふらとその電車に乗り込んだ。
「だ、大丈夫?」
「うん」
 その女の子は、心底不安そうな顔をして、私の手を握った。暖かくて、私も安心して、泣いてしまいそうだった。
 電車のドアはいつの間にか閉まり、あの揺れがまたやってきた。音はない。
 私は、これが何度も繰り返されるような気がして、また頭がおかしくなってしまいそうになったが、女の子の不安そうな表情を見て、私がしっかりしないと、と思った。

 電車が速度を緩めた時、私はこの子を抱っこしてそのまま電車を降りよう、と思った。命令には従わなくてはならないと思ったし、もし片方が下りた時点で、さっきのように電車が落ちてしまうのならば、二人が助かるためには、一緒に下りないといけない。
 私はその時自分が意外と冷静であることに驚くと同時に、自信も感じた。きっと乗り切って、生き残れる、と思った。なぜそう思ったのかは分からない。でも人は生命の危機を感じると、そういう風に無根拠な自信を抱くようになるのかもしれない。
 電車が完全に止まったとき、私は女の子に「じっとしてて」と言って、抱きかかえようとした。女の子は素直に抱きかかえられようとしたが、その瞬間に「降りろ! 降りろ! 降りろ! 降りろ!」という叫び声が聞こえ始め、私たちは反射的に耳を塞いでしまった。
 早く降りないと! と思った。この子に構っている場合じゃない! と思った。「降りろ! 降りろ! 降りろ! 降りろ!」
 人間薄情なもので、自分が助かるためなら、小さな子を平気で見捨てようとする。私がその時一瞬立ち止まれた理由は、私にはよく分からない。ドアの手すりを離して、暗闇の中に一歩足を踏み出そうとした瞬間は、確かに私は、その女の子を見捨てて自分だけ助かろうと考えていた。すでにそう決めていたはずだった。でも、実際にそうする前に、私の中の何か……何かが、私に警告をした。だからそこで立ち止まって。
 「降りよう! 一緒に!」と叫んで、女の子に手を差し伸べた。しかし女の子は両手で耳を塞ぎながら、ぶんぶんと首を振った後、急に走り出して電車の外に飛び出した。「降りたな」
 私は「まずい!」と思って手を伸ばした。ダメだ、と思った。女の子が振り返った。その瞬間、その子の上半身がなくなった。消えたのだ。腰から下だけになった華奢な足腰だけが、そこに立っていた。スカートがふわふわと揺れている。
 私は思わず手を引っ込めた。電車は、落ちなかった。
 ドアがすっと、何の感情もなく閉じて、私は電車の中、ひとり取り残された。私は、思わず後ずさりしてしりもちをついた。手に、何か液体が触れるのを感じて、ぞっとした。手が、赤く染まっていた。血だ。
 私は、何を触ったのか確認したくなかった。でも確認しなくてはならなかった。
 上半身だった。それ以上は何も言いたくない。

 私は、その遺体からできるだけ離れた席に座り、腰を折り、膝で目を覆い、何も考えないように、何も感じないように、ぶるぶる震えながら時が過ぎるのを待った。
 速度が落ちた時、私は絶望的な気持ちになっていた。もうどんなことがあっても、助からないような気がした。早くこの地獄が終わってほしい、と思った。
 だから、また音もなく扉が開いたとき「降りろ!」という叫び声が聞こえる前に、暗闇の中に足を踏み出した。私はそこで地面をしっかり踏みしめてから、目の裏で光の感覚を感じて、自分が今、目をつぶっている、ということに気づいた。
 目を開けると、そこは見慣れた最寄り駅のホームだった。電灯が明るく私は照らしてくれていたし、街の光も、いつも通りだった。遠くの空には冴えない明るさの星も見えた。
 時計を見ると、四時を指していた。深夜四時。この時間には……

 ベンチには、酔っぱらって寝ているおっさんが寝転がっていた。私はその人の肩を叩き、目を覚まさせた。
「あの、すいません」
「ん? うわ、お嬢ちゃん、血まみれやんけ。こわ」
「えと、私も訳が分からないんですけど、この時間って、電車通ってないですよね?」
「怖いこと言わんといてよ……この時間の電車に乗って生きて帰ってこれるわけないやんか……」
「え?」
 何か嫌な予感がして、振り返ると、何の変哲もない電車が一両だけ止まっていた。まるで、私たちのために用意されているかのように。
「乗れ! 乗れ! 乗れ! 乗れ!」
 私は耳を塞いだ。でも、目の前のおっさんは耳を塞がず、落ち着いて「はいはい」と言いながら立ち上がり、その電車に乗っていった。
「ほんじゃまたな」
 そう言って、おっさんは私に手を振った。電車のドアが閉まり、どこかに消えていった。
 私は恐ろしくなって、急いで改札を抜けた。そこからの景色はいつもと同じだった。料金も、いつもと同じだった。

 家に帰って、私が経験したことを色々なワードで検索してみたが、ひとつもそれっぽいものは見つからなかった。
 私は本当に、自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと、不安になって、今これを書いている。もし私と同じ目に遭ったことのある人がいたら、教えて欲しい。
 あのおっさんが「またな」と言ったことが妙に頭に残って、またいつか、あのおっさんと二人きりで、静かな電車の中に閉じ込められるのではないかと思うと、私は恐ろしくて恐ろしくて、どうにかなってしまいそうなのだ。
 私は今、窓から差し込んだ夜明けを感じながら、三角座りで毛布に包まり、ガタガタと体を震わせている。
 誰か助けて。











*フィクションです。


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