幸福と不幸の共感性
人間には才能というものがあり、それと同じように性向というものもある。
才能と性向が一致した人間は、偉大なことを成し遂げる。そして今、そういう常人では達しえない偉大なことを成し遂げる人は、たくさんいる。私は彼らを心の底から尊敬する。
羨ましいと思ったりもする。
私にはおそらく、はっきりと分かるひとつの才能というものがない。絵も音楽も文章も、「一般」の域を出ない。知能も我慢強さも、やはり「一般」の域を出ない。
ただ、性向の方はかなり特殊だと言える。私は人が気付かないような部分に気づくことができる。私は人が好まないことを好み、人が苦とすることを楽しむことができる。
私はひとりで目的もなく考え、悩むことに関してはかなり得意だ。人の悩みを一緒に悩んで答えを出すのも得意で、そうしているときは自分の存在が誰かの役に立っていると感じて喜べる。もちろん、私は誰かの役に立つためだけに生きているわけではないから、それは娯楽の一種に過ぎないのだが。
それに、苦しんでいる人の助けになれるのは嬉しいが、その人自身の努力と、私の些細な配慮によってその人が幸せになったとき、私はその子に対して、ほとんど関わりを持てなくなることが多い。いや、自分自身がそのこと関わるべきじゃないと思ってしまう。その子は私に対して借りがあると思っている。でも私は、そう思っていてほしくない。ただ私が、そうしたくてそうしたことなのだから、お返しなどしないでほしい。そもそも、そういうことがあったということ自体、その子には忘れていてほしい。私はその子のことが好きだから助けたのではなく、自分の能力を生かして誰かを助けたかったから、助けたに過ぎない。
私は本質的に独り善がりなのだろう。私は自分が必要とされなくなったら、その場を静かに去りたいと思っている人間なのだ。孤独が好きなのだろう。
あるいは、余計な人間として扱われるのが耐えきれないのかもしれない。だから、自分の存在が誰かにとって邪魔になる前に、身を引きたがる。ただ争いたくないだけ? それとも……そういう行動をしている自分に酔っている?
自己陶酔的な人間なのは、認める。私は誰かの深い悩みに共感できる自分が好きで、その場合のみ他者を必要とする。だから悩んでいない人と一緒に話していても、どこか物足りなさを感じる。
この世界から全ての悩み、不幸が消えたら私は退屈で生きているのが嫌になることだろう。私は悩みや不幸が結構好きなのだ。
私は嫌な奴だと思われるかもしれない。それでも、それが私の本性なのだ。私は人の不幸を見て、同情して泣きながら楽しんでいる。私は自分自身の不幸を噛み締めて楽しむように、他の不幸を想像して楽しむのだ。
「自分はマシだ」などと思うあの下品な連中と一緒くたにしてほしくないけれど、もしかしたら起源は同じなのかもしれない。
私が私自身の不幸を貴重なものとして楽しめるのも、本当はただ自分を客体として認識することによって、認識者たる「私を見ている私」は安全や幸福を噛み締めているのかもしれない。
つまり、私は私に対して他人事であることができるから、それによって「他人の不幸は蜜の味」を自分自身に対して適用できるのではないか?
でもよくわからないのは、人の不幸を楽しむ人間は、人の幸福を見て顔をしかめるらしいということだ。
私は、人の幸福を眺めるのが好きだ。そういう人間と一緒に同じ時を過ごすのは退屈なのでうんざりするが、不幸であった人間が幸福になって喜ぶ姿を見ると、心の底から喜びが湧き上がってくる。あぁよかった。全てはうまくいった。このために全ての不幸があったのだと思える。私は、そこにすでにある不幸を喜ぶことは多いけれど、すでに幸福な人間が不幸になればいいとは思わない。
人は勝手に不幸になる生き物だし、人は努力して幸福になれる生き物でもある。いずれにしろ、そこに激しい感情があるならば美しいし、私はそういうのが好きだ。どちらも蜜の味だ。
うーん。正直、人の幸福に共感して喜ぶのは、人の不幸に共感して悲しむのと同じくらい楽しいのに、なぜそれが分からないのかな?
そういえば、私は人の悩みを聞くのが好きだけど、それと同じくらい人の惚気話が好きだ。もちろんそこに欺瞞や劣等感から来る自慢が含まれているとうんざりするが、そうではなく心の底からの愛情や、仲の良さを見ると、ずっとその姿を見て眩しがっていたいと思う。
私はひとりで映画館や水族館に出かけることが多いけれど、その時に仲のよさそうな中年の夫婦がいると、心の底からこの世界は素晴らしいなと思える。
結局深くて強い愛情は、若者よりそこそこ年齢を重ねた人の間の方がよく見られる。
老人同士の恋も、私は大好きだ。親子愛も好きだし、友情も好き。仲の良い二人を少し離れたところから眺めるのは、それだけで心が温まる。
皆には幸せでいてほしい。不幸を喜んで味わい尽くせる人間だけが不幸になる世の中になれば、嬉しいと思う。
嫉妬をせず、気高くて、優しくて、自力で這い上がれる人間だけが不幸になって、そうじゃない人間はみんな幸せであればいい。
私は前者でありたい。でも、私は「普通の幸せ」が決して無意味だとは思わないし、損なわれていいとは思わない。
私はどっちも好きなのだ。不幸も、幸福も。
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