つれづれ社会観

 高等遊民という語のことはよく知らないが、高学歴だが無職であったりフリーターであったりする人はこのご時世別に珍しくはない。

 この現代日本社会はなぜか二極化に走っており、奴隷のように働くか、あるいはほとんど働かないかのどちらかしか選べない。
 特に高級な職業はその傾向が顕著で、多くの前提知識を必要とする職業人、つまり高度な教育を受け、一定の学問的知識を有する人間は、その人間の能力にぴったりはまる仕事を見つけると、これでもかというくらいに酷使される。もちろん個人が企業や国家などの組織に歯向かうことはできないし、自分の健康を壊さないぎりぎりのラインで働いているのが普通だ。そしてそれを「自己管理能力」と呼ぶし、そのような能力は現代において「あって当たり前」とされている。
 さぼるのが得意な人間や、手を抜くのが得意な人間の方がうまくやるし、得をすることが多いが、そもそもそのような高級な職業についている人のほとんどは「得」というものにあまり大きな関心がない。貰えるものは貰う。無意味に損はしたくない。お金のことで心配しながら生活していたくない、程度であることがほとんどだ。

 彼らに仕事を辞めさせないためには、仕事を辞めることは悪、あるいは、転職しても待遇や給料はよくならないどころか、悪くなると刷り込ませるのが合理的だし、実際そう思わせることがうまくいっていることは多い。
 彼らは与えられた仕事に関しては勤勉だが、自らの行き先を責任をもって決めてその結果を背負っていくことに関しては怠惰であることが多い。

 有能な人間は、その有能さを企業や国家に一生涯捧げるか、あるいは完全に無駄にして過ごすかのどちらかを迫られることが多い。中間があると、おそらく皆がその中間を選ぶと思うのだが……私は時々、それが本当によく分からない。
 あまりたくさん働きたくない専門的知識を持った人間は、この時代いくらでもいる。専門的知識を持っているにもかかわらず、それとは関係のない場所で、誰にでもできる仕事を日々雑にこなして生活している人間があまりにも多い。
 彼らの知識が無駄になっているとは言わないが、ただ有効的に活用されているかというと、そうではない。

 彼らが本来楽し気にやるはずの仕事は、誰かが死に物狂いで無理をしてやっている。もちろんその人の方がたくさん給料をもらっているから不平等というわけではないが、しかしとても奇妙だ。正常に仕事が分担されていないのだ。

 この社会はもうすでにほとんど内部で争う必要がないほど発展しきっている。つまるところ、高級な職業についていなくても、天寿を全うすることができる。日々の生活と健康に気を配っていれば、運が悪くない限りそうそう重い病にはかからないし、犯罪に巻き込まれることも少ない。
 特別頭がよくて仕事のできる人間が、平凡な職業について、平凡に仕事をして、平凡に幸せになって、平凡に死んでいく。
 逆に、それほど頭がよくなく仕事もできない人間が、難しい職業について、無理やり仕事をこなして、幸せなのか不幸なのかよく分からない忙しい生活の中で時を過ごし、最後には同じように平凡に死んでいく。
 なんだかそのような現実は、奇妙なものを感じさせる。

 社会全体の利益というものを考えた時、頭のいい人間には難しい仕事をさせて、そうでない人間には簡単な仕事をさせるのがいいし、その給料の差は多少はあってもいいが、必要以上に大きくする必要はない。どちらも必要な仕事であるからだ。

 だが実際には、働く意欲のある人間が能力に問わず毎日途方もない量の仕事をこなし、働く意欲の少ない人間が、能力に問わず毎日ほとんど何もせず暮らしている。彼らを無理に働かせようとしたって、人権に守られている範囲だと必ず彼らは怠けるし、人権を無視して何かをやるとすると、彼らの中の頭のいい人間が人権を無視して、他の働き者の精神を支配してさらに楽で豊かな生活を送るようになる。そういう国はいくらでもある。頭のいい人間にとって、そういう国の方が住みやすいかもしれない。
 金を持っている人間がいつも忙しくしている国はあまり多くない。すでにある程度の資産を持っており、それを適切に動かすすべを知っていれば、労せず安定した収入が入ってくる。
 金のない人間は金のために働かなくてはならないので、金を持っているだけで、彼らの余剰労働分の利益が懐に入ってくるのだ。

 そのような仕組みは高度に発展した競争社会によって破壊されているかのように思いきや、株式のシステムによって巨大化した大企業に利益が集中しているだけなので、その構造自体は何ら変わっていない。
 大企業に多額の投資をしておけば、彼らは勝手に拡大成長を続けるので、順調に資産が増えていく。それは結局、その大企業の傘下で働いている人々の余剰労働分の利益が手元に流れてきているともいえるので、やっていること自体は「代わりに働いてもらっている」ことに変わりはないのだ。

 このような時代において、生きるのに金を必要としない人間や、生きるのに必要な金が自動的に入ってくるような環境を整えた人間は、まず働かないか、働くとしても、楽しく働くか、あるいは雑に働く。
 彼らのほとんどは内心、自分が学んだり習得した技能が十分に生かせていないことにぼんやりとした不満を持っている。金と暇を持った優秀な彼らは、いつも価値を探しているのだ。
 だからこそ、働くことに価値を見出した人間は過剰に働くのだろう。高級な労働に求められる労働量が異常なほど多いのはそのせいだろう。
 具体的で目立つ職業は、医者と官僚だ。この二つの高度な職業は、異常なほど勤勉な人間以外は原則お断りという実情がある。
 だが実際のところ、怠け者であったとしても、医者に必要とされるだけの専門的知識を持っている人間や、官僚に必要とされるだけのコミュニケーション能力や物事の認識、分析能力の長けている人間は山ほどいる。彼らは実際に働く中で、環境に適応して働き者になっていくこともあるし、何とかうまくサボる方法を確立してそこそこな感じでやっていくこともある。
 でも何割かはものの数か月で見切りをつけてやめてしまうし、やめた後に彼らが何をやるかと言えば……それは様々であるが、彼がそれまで学んだことを十分に生かせる職に就くことはあまりない。
 彼らは後悔はしていないが、不満を持っている。自分の能力を客観的に捉えることができるからこそ、自分に相応しい仕事や地位が与えられていないことに、妙な居心地の悪さを感じている。
 そしてそのような不満や居心地の悪さを解消するために、彼らはまた別の方法で地位や名声、収入を確保する。だが、それでもやはり、彼の本来生かすべき専門性が生かされていないという問題は、彼の人生に影を落とさずにいられないらしい。

 賢い人間は基本的に解決可能なことは自力で静かに解決する。解決してしまう。だからこそ、彼らは自らに背負わされた社会的不利を、何とか自分の努力で覆そうとするし、覆してしまう。
 だが冷静に考えてみると、そこで生じてくる環境と素養とのミスマッチは、社会的に見れば途方もない損失だ。医者になれるほど長い時間をかけてその技術と知識を習得してきていて、免許も持っているにもかかわらず、人々の健康ではなく、自らの金のために少しずるい商売をする。そういうことが、この時代あまりに多い。
 専門的な技能を持った人間が、労働環境が合わないというだけで、ただタイミングよく資金を動かすことによって金を稼ごうと考えてしまう。そしてそれが実際にうまくいってしまう。それは本人にとっては大した問題ではないが、国家や社会にとっては本当のところ大きな問題なのではないか?
 もちろん、頭のいい人間がたくさんの金を持ち、彼らが価値を見出したものに金を払うようになれば、社会全体が豊かになるし、明るくもなる。そういうこと自体が悪いことではない。
 でも本来であれば、彼らはそのような活動に必要なエネルギーを残せる範囲で自らの能力を生かした「高級な仕事」をこなせるわけだし、そのように生きることが喜びであることは、彼ら自身も十二分に理解しているはずだ。
 それが実現されていない現状は、大きな問題なのではないだろうか。

 私がここで語っていることは、一言で言えば「この社会では、有能な怠けものが働く場所が用意されていない。ゆえに、有能な怠けものは働かずに金を稼ごうとしてしまうし、しかもそれを成功させてしまう」ということだ。
 それは彼らへの不当な仕打ちに対する彼ら自身の正当な対処と言えるのだが、でもそれはどうにも……誰も得しないような気がする。
 なんだか奇妙な感じがする。

 おそらくこの社会には、実際のデータ以上に多くの「遊民」がいる。彼らは力、すなわち金を持っている。金だけでなく、暇も持っている。人間関係の太い繋がりを持っていることも多い。
 彼らは社会を支配していないが、社会をじっと見つめている。
 その気になれば、彼らは団結して社会を動かすことができるのではないか? と私は疑っている。

 ……現代で目立っているのは先ほど述べた彼らではなくインフルエンサーと呼ばれる人々だ。その人々はなんだかんだ忙しくしていて、基本的な行動理念は「目立つこと」や「楽しむこと」。あるいは「人を目立たせること」や「人を楽しませること」。いずれにしろ彼らの本質は芸人的であり、支配者的ではない。人を集めて動かす時でさえ、彼らができるのは「お願い」であって「命令」ではない。

 いやもしかすると、もはや現代の大衆というのは「命令」を聞かなくなっているのではないか? ここまでくると「お願い」や「情報操作」の方が、命令より有効になってきているのではないか?
 そうなってくると、力の意味も変わってくる。価値が、金ではなく、人気や影響力、いや、知性……正確には「恥知らずな知性」の方に動いていくのではないか? それは非常に気分が悪い。

 恥知らずな知性とは何か。すなわち、自らの利益のため、合理的に愚かさを演じることを、恥だと思わない知性。あらゆる倫理的規範や自己自身への規則を表面的な力への手段としてしか見ず、あらゆる行動に対して抵抗を抱かない、極端なまでの利己的な合理主義。そういう知性が、もっとも価値あるものとされるのではないか? ソフィスティックな……



 今はまだないが、私のような人間にもいつか居場所が与えられれば嬉しい。

 私はどんな人間か。よくできた無能だ。私は「ほどほどに働くこと」でさえしたくない。それでいて、自分のために他者を犠牲にすることをよしとすることのできない人間だ。

 私にできることは、ひとりで楽しむことと、私のことが好きな人を楽しませることだけだ。

 最近私は、自分の人生を丸ごと無駄にする覚悟ができた。自分のために? いや、自分のためですらない。誰かのためでもない。そもそもその「何かのため」があるなら、私は自分の人生をそれに捧げることができる。それがないから、一切の目的を持たないから、持てなかったから、私は自分の人生を無駄にする覚悟を必要としたのだ。
 つまるところそれは、何事もないまま死んでいくことを肯定すること。あるいは何事かが起こって急に死が訪れることを肯定すること。
 自らに与えられた運命に対して従順でいること。そういう覚悟ができた。

 もはや私はあらゆる努力を必要としない人間となり、私が今後努力をするときは、私自身がそれを愛するときだけだ。

 ゆえに私はもう色々なことに躊躇をしないし、微妙なこともどんどん言葉にしていく。
 大多数の声が聞こえなくなりつつある。私の目に映る世界が、私にとって見やすい世界に正しく歪んでいくように感じている。

 私はこれまで大多数の人々が見ている世界を見ていた。誰かから押し付けられた間主観的な世界を見ていた。
 だが、静かに、確かに、私の目は研ぎ澄まされ、私自身の目に近くなっている。私の見ている世界こそが、私にとっての現実であり、私の愛すべき世界だ。
 私は私自身の中に閉じこもる準備ができているのと同時に、世界中のあらゆる開かれた知的財産を自分のものとして強奪する生まれつきの素養も持ち合わせている。

 そう。私は私自身の世界を確立しつつある。私の生きやすい精神的世界観が、構築されつつある。
 その世界では、私の見たくない「人間」は小さく見える。だが「事実」というものは、はっきりと、人々が見るのと同じように、しっかり見て取ることができる。この世界に「事実」というものがあるかどうかも私は時に疑うが、ともあれ私の精神的世界観は、決して私にとってただ都合がいいだけの世界ではないのだ。
 それはあくまで、私が健康であるための世界であり、不快で醜い真理を受け入れるための土台でもある。

 あぁ厄介なことに、人間にとって真理とは愛なのだ。結局のところ、私たちの周りある「些細な認識」を聖別したものが「真理」であり、そのように、本来なら意味のない「事実」や「法則」を、聖なるもの、絶対的なものに仕上げるのは、私たちの愛なのだ。
 
 世界は面白いことに、どんな醜い事柄も、それが人間の苦悩の原因になった瞬間に、ひとつの真理に化ける。そしてそれが愛されているというだけの理由で、それは美しくなる。
 愛されたものは美しくなる。美しくなるしかないのだ。私たちの認識はそのようにできている。それでいいのだ。

 だから私たちにとってもっとも醜いものとは、間違ったものや、矛盾したもの、でたらめで不規則なものではなく、愛することのできないものなのだ。
 もっとも愛せないもの。どれだけ認識しても、苦悩の前に不快がやってきて、それ以上思考が進められないこと。そういう物事が私たちにとってもっとも真理から遠い物事であり、私たちの目から遠ざけられるべき物事である。

 そして……各個人よって、見るべきものも、愛すべきものも、異なっている。全ての人間が同じものを愛する必要はなく、同じものを嫌う必要もない。だから、真理というのは、決して普遍的であってはならないものなのだ。それは全て個人的であり、ひとりひとりの人間の中に、創造されるべき事柄なのだ。

 あるひとつの普遍的な真理があるとすると……「普遍的な真理」なるものは、どのような人間の手にも余るものである、ということであろうか……

 真理の意味するところは「反駁不可能」あるいは「反駁に対する忌避反応」である。もはやそれが他者にとって正しいかどうかは重要ではないのだ。真理とは「正しいこと」ではなく「正しくなくてはならないこと」なのだ。

 そういう意味では、結局のところ科学とは、数と物理と自然への愛なのだ。

 なぜだろうか。人間の愛には普遍性が宿っている。私たちが何かを愛し、信じるとき、その前に愛そのものを信じている。

 世界にはまだ見ぬ無数の真理が人間の手に触れられるのを待っている。私にはそのように見える。

 人の数だけ美しいものがある。人の数だけ美しい愛の形がある。それはきっとこの星空のように美しいに違いない。

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