「世界は存在しない」という視点

 あくまで「世界」という語は「ぼんやりとした全体」としての意味しか持たず、存在論的な話をするとそのあやふやさが他の概念にまで飛び火して、結局議論全体がぼんやりするし、主張としても弱くなる。

 さて、こういう観点について私はこう思う。
 まったくの正論である。ため息が出るくらい、ね。
「言葉を用いてものごとを明らかにする」「思考をより明晰にする」
 というのを目的に置くならば、まさにその通りであるし、それこそが哲学であると思う人もいるだろう。

 しかし、はっきり言おう。そんなものは哲学ではない。


 哲学とは本来「客観性」とは相いれないものである。そもそも客観性なるものは幻想であり、もし幻想でないものをその代わりに置くならば「互いに誤謬の可能性が高い相互了解」である。これしかないし、巷で言われている「客観性」なるものは、これの積み重ねでしかない。

 科学的実験主義とは、この「相互了解」の土台に実験と経験を置いた。これがもっとも後から覆りづらいものであり、実際生活に役立つのも事実であるから。

 となると物事は常に「実験」と「経験」を軸に考えなくてはならない、ということになってくる。少なくとも「客観性」なるものを語るのならば、それが前提に来なければ話が通じない。自己矛盾に陥ってしまう。
(ただあらゆる哲学をよく見てみると、常に「経験」というものが内に含まれていることがよく分かる。誰一人、自分の頭だけで一から考えようとした人間はいなかった。あのデカルトでさえ「世間という大きな書物」なんて言い方をした)

 話を戻そう。私は先ほど「哲学とは本来客観性とは相いれない」と語った。しかし次に、相互了解をするための軸に「経験」を置くことが客観性を高めることにつながるという論旨で語った。
 これだと矛盾しているのではないかと疑問に思われるかもしれない。

 哲学の本質はあくまでその「客観性」「相互了解」に刃を突き立てることである。ソクラテスの「無知の知」は、アテナイ人の相互了解「俺たちは賢い」「俺たちは物事をよく分かっている」という「客観性」に対して主張された。
 確かにアテナイ人は、同時代の他の民族や別のポリスに対して、知識人が集まりやすい環境にあった。ゆえに彼らの影響を強く受けいている一般のアテナイ人も、賢い。そうしてアテナイはかつてギリシャを席巻した。
 これはこの時代を生きる私たちの耳にも「客観的」に響く。
 ここに「本当にそうだろうか?」の声を響かせたのがソクラテスだった。それが、哲学の起こりだ。

 哲学は「客観性」にNOを言うところから始まる。そして自分の経験に基づく「主観的意見」に論理を従えて、人と後付けの相互了解を結んでいくことによって「客観的」にしてしまおうとする試みである。
(ヘーゲルが想起されると思うが、ここでは触れない。私は彼についてあまり勉強していないから)

 
 哲学の歴史はそれの繰り返しであるということも、哲学史に詳しい諸氏には自明であると思う。
 さてここで、最初の話に戻そう。
 「世界は存在しない」という見方は、はたしてこれからの「客観性」に相応しいだろうか? という問題である。

 まず第一この時代では、「世界」という言葉がたくさん使われているし、そこに相互了解と客観性があると思われている。
 そして本来的にすべての相互了解と客観性は覆りうる。それが実験と経験とに基づいていないものほど、簡単に崩れうる。
 ゆえに「世界」という語、概念は、ひっくり返すことのできるものである。
 ただそれをすべきなのかという問題なのだ。

 哲学とは選択である。そこにある正しさを掴みとるものではなく、むしろ正しさに常に反対し続け、その正しさに反対するために、魅力的な新しい正しさを主張するという試みである。

 はたして「世界は存在しない」は魅力的だろうか?

 私としてはあの不確かでぼんやりとした概念が好きだ。あの概念を用いたまま考え、思想を固く、正しく主張していくことを、私は望んでいる。

 だが見たものは見たものだし、人に言われなくても私は「世界というのはあくまでそういう相互了解に過ぎない、非実在的な概念である」ということを考えていたし、それをひとつの視点として持っている。
 あくまでそれは武器の一本にすぎず、魅力的な主張とは言えない。
 そう。「世界は存在しない」もしょせんはひとつの相互了解に過ぎないのだ。彼風に言い換えれば「意味の場」に過ぎない。

 ただその武器を万人が触れられるようにしておく仕事は、「世界的」に見れば無視できない立派な仕事である。
 私は彼を立派だと思うし尊敬もする。ただし追従はしない。賛同もしない。むしろ積極的に反対しよう。

 それが私の批判精神だ。


 追記:彼の「世界は存在しない」という主張は、つまり「世界を限度のあるものとして見る」ことに対する反対である。
 それもまたあくまで「見方の一形式」に過ぎないと私は考える。
 物事を見る時に様々な限度を定めて、それを「世界」と名付けて相互了解的に何かを思考したり議論したりすることに、私は楽しみを覚えるし、その方が魅力的に感じる。
 だから、私は「世界の存在の仕方は無数にあり、それを私たちは選んでいい」という主張をしたい。
 その先に何を置くかは……


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