勉強ができること【物語】

「もうほんと、頭空っぽなやつばっか!」
 そう嘆くのは、クラスメイトの由美。今年になってから新しくできた、かわいらしい友人だ。
「自分では何も考えてないくせに、ちょっと勉強ができるくらいで威張りやがって。周りも、ニヤニヤ笑いやがって……」
 返ってきたテストのことで、仲の良くない子に煽られたらしい。確か「由美って、周りを馬鹿にする割にはそんな勉強できないよね」とか。
 その子に悪意があったかどうかは分からないが、私もそれは本当のことだと思った。
「勉強、教えようか? 由美なら、ちょっとやったらすぐあの子に勝てるようになるよ」
 私がそういうと、由美は唇を震わせた後、俯いた。考え込んでいるようだ。
「ちょっとって、どれくらい?」
「毎週土日の、午前か午後。一日三四時間、一緒に勉強しない? 私将来、塾の先生とかになりたいからさ、どう?」
「分かった。やる。あいつを見返してやる。マジでむかつくもん。クラスで一番になってやる」
「それは無理だよ。私がいるもん」
「じゃあ二番」
「頑張ろうね」

 由美の成績は、面白いくらいよくなった。由美は謙遜して「私の教え方がうまいからだ」と言うが、実際にはそうではない。ただ、正しい方法で、時間をかけたからだ。
 そして今この時代、求められているのはそれだ。ストレスなく、楽し気に、長時間、自分の学んだことを意識的に振り返り、自分の体、すなわち生活と一体化させる。
 勉強ができる人間とそうでない人間の違いは、勉強をしていないときに、どれだけ学んだことを意識して、思い出せるか、だ。そしてその技能が習得できれば、高度な専門技能以外は全部何とかなる。意識的に理解をすっ飛ばして記憶して、あとで暇なとき、反芻するだけでいい。そのサイクルを確立してしまえば、勉強は苦ではなくなる。
 才能なんてものは必要なくて、必要なのは、一番最初のやる気と、それを継続するための頑固さだけ。
 自分のそれまでの生活を丸ごと作り替えることさえできれば、あとは勝手に進んでいく。努力なんて最初だけでいい。

「ねぇ。最近私思うんだけどさ」
 由美はずいぶん大人しくなった。周りを軽蔑するようなことを言わなくなった。
「何?」
 私たちは今でも、土日は二人で静かに勉強している。
「私、馬鹿になったんじゃないかと思って」
「え?」
「いや、さ。あんたの言うように、私は学んだことを反芻することができるようになった。それで、自分が勉強できなかった時のことも、反芻してみるようになった。その結果思ったんだ。
 昔、私は今よりずっと、色々なことで悩んでいた。それを言葉にする能力はなかったけれど、確かに私はいろいろ考えていた。考えていたから、不満だって多かった。
 覚えてる? 私……周りの人間が、みんな頭空っぽだって言ったよね? 私、今自分がなんでそう思わなくなっているのかが、分からない」
「私が由美の頭を空っぽにしてしまったわけだね」
「そう。恨みはないよ。私は勉強ができるようになったし、色んな目的を自分の意思で達成できるようになった。言い方を変えれば、自分にはできないことをできると思い込んだり、無謀な挑戦をしなくなった。手の届く範囲の目的を見つけて、そこに向かって必要なものを揃える。そういう、論理性を学んだ。たとえば……そうだね。私が、テストであんたに勝とう、とは思わないのと一緒」
「賢くなったんだね」
「でも、こんなのが賢いって言えるのか、私には分からなくなった。これもあんたのせい。ねぇ、どうしてか教えてくれない?」
「それは、私もずっと考えていることだから、残念ながら答えは出せないよ」
「そういうと思った。あんた、意外と何にも知らないもんね」
「そうだよ。私が知っているのは、私が勉強したことだけ。それ以外は何にも分からない。もしそれを分かるって言ったら、嘘になっちゃう。お馬鹿さんになっちゃう」
「なんで、分かろうとしないの?」
「分かって、何の役に立つの? 今時、哲学にハマるのは馬鹿か天才のどっちかだけで、私たちはそうじゃないでしょ?」
「多分、私は馬鹿の側だ。自力で、効率のいい勉強の方法も見つけられなかったし、あんたほど記憶力もよくない。役に立つかどうかということに、価値を置けない」
「そう、なら……」
「この勉強会はもうやめよう。今までありがとう」
「うん。それじゃあ最後にちょっといい?」
 私は、いつかこうなることが分かっていた。だから、その時どうするかは、あの日からずっと決めていた。

 私の部屋の空気は、しんと静まり返る。エアコンの小さな音が、川のせせらぎを想起させた。きっとこういうことは、ずっと昔から続いてきたことなんだと思う。若い女同士の、くだらない秘め事?
「どうしたの?」
「目をつぶってて」
 由美は素直に背筋を伸ばしたまま目をつぶって、じっと待っている。私は、二人を隔てるテーブルに手をついて、身を乗り出し、彼女の前髪をかきあげた。彼女は目をつぶったまま。私は、自分の頬が緩むのを感じた。
 私は、由美みたいな人が好きだよ。
 そう思って、おでこにキスをした。

 息を吐いた。
「もういいよ」
「そう。満足した?」
「驚かないんだね?」
「あんたがそういうヤツだって、知ってるもん。それ以上はしてこないヤツだってことも」
「してほしいの?」
「したら絶交。私にそういう趣味はない」
「知ってる」

 私は知っている。私には、これ以上彼女にあげられるものが、ないことを。
 勉強ができるかどうかで評価されるのは、十代の間だけだ。二十歳をすぎれば、自分の意志とか、人との付き合い方とか、そういう部分の方が大事になってくる。
 私は、自分がどうしようもなくこの先つまらない人間になっていくのを知っている。でも彼女は違う。彼女はどんどん色々なものを吸収して、より豊かな、魅力的な人間になっていく。そういうことが分からないほど、私は馬鹿じゃない。
 だから、せめて小さくて綺麗な思い出を残したかった。彼女の人生に、少しでも影響を及ぼしたかった。実際、彼女が人並み以上に勉強ができるようになったことは、彼女の進む道を大きく変えると思う。それが吉と出るか凶と出るかは、私には分からない。

「私はあんたとは同じ高校には入らないよ」
 土日に一緒に勉強をしなくなってから、由美の成績は少し落ちたけど、それでも前よりかは格段によく、誰かに馬鹿にされることのない成績ではあった。人付き合いもうまくなって、他のクラスメイトからも、好ましく思われるようになった。
「うん。そうだと思った」
 帰るときは、今でも一緒のままだ。それが少し、切ない。多分この気持ちは、一生忘れられないと思う。
「この先多分、あんたみたいな人とは山ほど関わることになると思う。実際、勉強ができるようになってみて、勉強ができるやつっていうのは二種類いるって気がついた。あんたみたいなタイプと、もっと出来がいいタイプ。あんたより点数は低くとも、色々なことを知ってて、その結果としてたまたま点数がいいやつのことだな。
 悲しいことに、私はどちらでもない。そして、どちらにも、興味が湧かない。私はそういう出来のいいやつらよりも、もっと変わっていて、うまく行かないやつの方が、すごいやつらだと思う。不器用で、教えられてもうまくできないやつらの方が、もっと色々なことを分かっていて、色々なことができるんだと思っている。目立たないけど、そういうやつのほうが……」
「由美の言っていることは正しいよ。だから由美は、私とは違う道に進むべきなんだ」
「感謝はしてる」
「私も、ありがとう」

 小さな花束が宙に舞う。幸せそうな花嫁姿の彼女を、独身の私は眩しい気持ちで眺めている。
 こうなることは分かっていた。だからこそ、あの日々を大事にしたんだ。
 私の求めていることと、彼女の求めていることは、最初から全く違うことだった。
 それが一瞬だけ交わったあの日々は、自分の研究テーマにはならないけれど、私の「今」にとって、一番大切なことだった。

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