後ろめたさを持たずに生きること


 自分の本性に即した行いをするのに、後ろめたさを持たないことは、なかなか簡単なことではない。
 だが一番重要なのは、それなのだ。自分のやっていることに、一切の内的な反抗心を持たないこと。
「こんなことすべきじゃない」
「これは私のすべきことじゃない」
「これをやっても意味はないんじゃないか?」
「私はもうやめてしまいたい」
 等々の考えが、一切頭に浮かばないこと。それが何かをするうえで、もっとも重要な事柄であると私は思う。

 何をやっていてもそういう風な内的な抵抗感を持たない人は、自分のすべきことを選ぶことができないであろう。そういう人は何をやっていても、満足感を得られるから幸福であるだろうが、趣味というものがほとんどないからあまり魅力的な人物とは言えないかもしれない。
 ともあれ、自分の内的な抵抗感を感じることを無理にするのはやめた方がいいし、逆にそういう抵抗感を克服して行為自体を強引に正当化してでも、その行為を成し遂げたいという強い意志があるならば、それもまたよし、である。

 内的な抵抗感は、自分自身をよりよい方に導く指針として役に立つ。無視すべきじゃないし、それどころかしっかり拝聴するくらいの心意気で感じようとした方がいい。


 私は文章を書いて人に見せびらかす、ということにはじめは抵抗感を感じた。恥ずかしかったし、どう思われるか分からなくて不安だったからだ。
 しかしそれ以上に、私の意志は、それを望んでいた。現実では私は都合上私らしくいられないし、本音を言うことができないから、自分の言葉や知恵が、溜まりに溜まって困っていたのだ。

 私は文章を書くことに、幸福を感じている。強い幸福である。書き終えた後、それをどうしようかと考える時は苦痛であるが、書くこと自体は喜びであり「私は私のやるべきことをやっている」という内的な自己肯定を純粋に感じる。

 自分自身であること。自分自身を表現すること。それに、迷いを持たないこと。それだけに、集中していること。
 私は私のことを書いている時が、私が一番好きな私である。私は自分の嫌いな自分を文章に刻んでいるときでさえ、そのような行為をしている私が好きなのである。

 まだそれを人に見せることには、不安を感じるし、後ろめたさも感じる。でも書くこと自体には、一切の抵抗がない。
 エッチなことを書く時でさえ、意味の分からないものを書く時でさえ、私は躊躇しない。私がそのとき書きたいと思ったものを、書く。私の肉体が欲する内的な衝動が、私の文章を紡ぎ出す。

 人生は喜びであると思う。自分のしたいことができているということは、それだけで人生を楽しいものに変えてくれる。明日もこれができるということが、私にとって私の人生を何よりも軽快にする。

 私は、今の私自身が、世界一幸せな私であると思う。

 今はまだこの喜びを、何というか、完璧な形で表現することはできていないけれど、いつかできるようになると思う。

 最近漢詩を勉強し始めた。俳句より先にこっちなのはちょっとアレかもしれないけど、でも私はこちらを興味を持ったから、図書館で何冊か関連した本を借りてきて、手当たり次第にめくっている。
 楽しい。人生は楽しい。役に立つ勉強は、とても楽しい。

 ただ私の幸福は、まだ脆い。周りの人間の目を気にするから、ひとりきりの時でしか楽しめない。誰かと同じ空間を共有していると、私はこれを楽しむことができない。文章を書くときも、本を読むときも、人の目を気にしてしまう。
 そうなると、もう無邪気さも、喜びも、ほとんど消えてなくなってしまう。

 私の幸福は、孤独を条件とする。私自身は私自身に対して後ろめたさを捨てることができたけれど、まだ私は他者に対しての後ろめたさは捨てることができていない。

 それは今後の課題であるけれど、今は自分の幸せを思う存分噛み締めておこうと思う。

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