自己中心的でないこと

 現代社会において「自己中心的だ」と他者のことを非難する人間には、ある共通点がある。
 ひとつは「私たち」という感覚が強いこと。
 もうひとつは「損をしたくない」という感覚が強いこと。
 もっと俗な言い方をすれば、臆病でケチ、なのである。

 もう少し詳しく説明しよう。
 十人の人間が十個の食べ物を受け取ったとしよう。そのうちのひとりが二つ食べてしまったとき、臆病な人間ほど残りの九人を集めて「私たち」を形成しようとする。それによって、二つ食べてしまったひとりの利己的な人間を「敵」として扱おうとするのだ。
 そしてそういう人間は、もし自分が二つ食べてしまった側だとすると、あと四人に二つ食べさせて、五人の腹いっぱいの人間を「私たち」と呼んで、食べることができず自分たちに不満を持っている人間を「弱者」と呼んで蔑むことだろう。
 これはつまり「力」というものの構造を理解したうえで、より強い立場に立ち、他人を抑圧したがる、という傾向のことを言う。同時に、自分が弱い立場にあるときは、控えめに文句を言う。こういう人間は、殴りたいけど、殴られたくない、という感覚で生きているのである。
 彼らは自分たちが弱者であるときは、自分の主張を「正義」と呼び、自分たちが強者であるときは、自分たちの主張を「権利」と呼ぶ。
 彼らは自分たちの取り分を少しも減らしたくないし、隙あらば増やしたいとも思っている。だから、人より多くを取ろうとした人間や、自分たちと同じものを欲し、協力して手に入れようとしてくれない人間のことを「自己中心的」と呼んで非難するのである。

 彼らは団結する。だから、自己中心的ではない。だがその団結は「自分」のための団結だ。ただ自分が損をしたくないから、自分がより多くの得を得たいから、彼らは団結するのだ。彼らは確かに自己中心的ではないが、極度に利己的である。
 時に自己中心的な人間の方が、利己的でない場合があるくらいだ。彼は自分が盗んできたものを、その時の気分で誰かに与えることがある。場合によっては、自分より多くの取り分を誰かに与える、ということもある。まったく、ろくな理由もなしに!
 対して自己中心的でない人間は、あらゆる利他的な行動のために「正義」や「公平」を必要とする。自分自身よりも多くの取り分を誰かに与えようなどとは、つゆにも思わない。彼らは「正義」や「公平」以外の感情を持って、誰かを利することができないのだ。必然的に彼らの優しさは、感情ではなく理性的な何かであろう。義務的な何かであろう。

 それは私たち自己中心的な人間にとって、極めて不快なものである。
「本当は優しくしたくないが、それが義務だから、私たちは優しい人間のふりをして優しく接しなくてはならない。そして彼の義務は、私たちの優しさを疑わないことである。もし彼が私たちのことを優しくない人間だと思ったならば、私たちは実際に彼に対して優しくなくなってしまうことだろう」
 私たちの内側から湧き上がってくる身勝手な利他心に対して、この感覚のいかに貧しいことか。いかに醜いことか。

 自己中心的な人間は、相手がどれだけ自分のことを悪く思っていても(相手が自分を嫌っていることを知っていても)その相手が自分にとって好ましい人間であるならば(自分が相手を好きだと思えるならば)、その人間のことを愛し、利することができる。

 あらゆる高度な人間性は、その人間の自己中心性から湧き上がってくるものであり、私たちはそれを愛し、守っていかなくてはならない。
 自己中心的であること自体を悪徳とし、否定するような連中を、私たちは気の毒な人々だと思って軽蔑しておこう。

 だが当然、自己中心的であることはたった一つの在り方ではなく、無数の在り方があり、その中には私たちにとって気分のいいものもあれば、気分の悪いものもある。
 私たちは他に自分の趣味を押し付けることを欲しないが、自分自身に対する趣味には忠実でありたい。つまり私たちは、もうひとり存在する自分とそっくりの自己中心的な人間が、私たち自身にとって好ましい人間であってほしいのだ。

 それこそが、本当の意味で自分自身を愛するということである。たとえ自分が他者になったときも、そうでないときと同じように愛することができる、ということ。それが、より高度な、自己中心的な、自己愛なのだ。

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