楽な生活

 勝負事が嫌いだ。白黒つけるのが嫌いだ。勝っても負けても気分が悪い。

 戦うのは嫌いじゃない。命を懸けることだって、嫌いではない。それが必要であるならば、私はそれを肯定できる。

 でも意味もなく傷つくのは嫌いだ。争いごとをして決定的に誰かから損ねられなかった人は、ただ運がよかっただけだ。

 私には嫌いなものがたくさんある。でも私は、自分より優れていると感じているものに対しては、それがどれだけ不愉快でも、悪く言わないことにしている。昔からそうだった。たとえ気に入らなくても、私自身が、その人間に少しでも敬意を抱いているのならば、その人間への敵意よりも、敬意を優先するようにしてきた。
 悔しい思いをしながら褒めるようにしてきた。

 この世には、ある部分ではとても優れているが、他の部分ではひどく歪んでいる、という人はいくらでもいるし、私はそういう人のことを理解できないから、価値があると思うから、尊重するようにしている。

 でも彼らとは関わりたくない。離れたところから見ているだけでいい。というか、見ることさえ、時々でいい。

 私は昔から、自分には特別な才能がないのだということに気づいていた。自分のことを本当の意味で天才だと思い込めたことは一度もなかった。どう考えても私は平凡な能力と平凡な人格を持って生まれてきた。
 人より秀でた部分はあった。でもそれは単なる個性であり、才能と呼べるほどのものではなかった。平均値から逸脱したような何かを、私は持っていなかった。

 私は、自分がどのような分野でも一番にはなれないことを早い段階で分かっていた。そもそも一番になることに、それほど強い執着もなかった。一学年二百人くらいの公立中学校というどこにでもある狭い世界で一位を維持することすらままならなかったのだから、私はそういう意味での現実は昔からずっと理解できていた。

 自分ははっきり勝ち負けの決まるような世界で生きていける人間ではない。そういう世界で自分の場所を作るだけのバイタリティも意志の力もないと、そういうことも知っていた。

 あーだこーだ理由をつけても、結局私が社会から逃げ出した理由は、いずれ自分がその世界で自分の場所を作るのに失敗することを察していたからだと思う。競争社会で競争できるほど私は強い人間ではなかったし、強くなくてもその世界でやっていけるほど、競争が好きな人間でもなかった。

 年を取ってから、積み上げてきたものが木っ端みじんに砕かれるよりも、若いうちに自分から捨ててしまう方が楽だ。その方がまだ、立ち直りやすい。もしかすると、そういう打算もあったかもしれない。

 競争することや努力することが当たり前の人間に囲まれて生活をするのは気分が悪かったけれど、競争することや努力することをしたことのない人間に囲まれて生活するのは、もっと気分が悪かった。
 後悔はしていない。でも、私には居場所がないのだということは痛いほど分かった。

 私は中途半端なのだ。諦めているのに、その諦め方が下手なのだ。自分は大した存在ではないと割り切って、ただ自分が人生を無難にこなすことに集中すればいいのに、そういう生き方を自分自身に許すことがどうしてもできない。
 競争社会で人と成果を競うことができるほど強くもないくせに、自分自身というものに価値を見出そうとしている。自分自身にも、何かできることがあるはずだと足掻いている。いや、足掻くことすらままならないから、仕方なく、考えている。

 自分の頭の悪さにはいつもうんざりさせられる。それなのに、自分の頭の良さのせいで、この時代の大多数の人たちと仲良くすることは気持ち悪くて仕方がない。
 言葉がろくに通じないということが、腹立たしくて仕方がない。相手の言っていることのくだらなさや低劣さにいちいち反感を持ってしまうし、それを気にしないでいられるだけの図太さも、手に入らなかった。

 自分の人生に価値がないことだけはずっと前から気づいていた。他の人にとって、私という人間に価値がないことも、ずっと前から気づいていた。
 欲望の対象にされることはあっても、それは別に私じゃなくてもいいのだということは分かっていた。私が私であることの意味というものが、一切ないのだと、私はずっと前から気づいていた。

 前向きでいることに意味なんてない。前向きに生きることのメリットは、他者にとって、そういう人間の方が扱いやすいというただそれだけだ。前向きな人間に言うことを聞かせることは簡単だから。


 私は自分が役立たずであることに気付いている。他者にとって自分がどうしようもなくくだらない存在であることに気付いている。

 価値ある存在であろうと藻掻くこと自体が、自分に価値がないということの証拠になっている。

 これは気分の問題ではなくて、事実の問題だ。認識の問題だ。
 私はいま苦しんでいないし、実は悩んでもいない。ずっと前から分かっていたことを、今、いい機会なので再確認しているだけだ。
 私は、自分が現実をまっすぐ見ることのできる人間である、ということにプライドを持っているし、だからこそ、こうやって自分の一番……惨めな部分に光を当てている。
 私は何も持っていない人間だ。そのくせ、他の何も持っていない人間たちと同じように生きることに、吐き気を感じている。プライドが私をそうさせるのか、それとも認識が私をそうさせるのか、それは分からない。
 でも私は私がどうしようもなく凡人であることに気付いているし、そのことについては、常日頃、どうにかして解決しようと考えている。

 普通に生きること。普通に生きて、普通に幸せになること。それは、私の努力の問題ではなくて、単なる環境の問題、つまり、偶然と運の問題であるような気がしてならない。もしそうであるならば、私はそれについて何かを考える理由を持たない。だって考えようが考えまいが、なるようにしかならないのだから。
 だから、その答えは違うのだ。普通に生きて普通に幸せになることが私にとっての正解であるならば、私がこうやって考え、書き続けている理由として、筋が通らない。私が、苦悩を好む人間であることとの折り合いがつかない。
 だから、その答えは違うのだ。

 私には、未来の何も考えなくなった「普通の大人」としての自分が容易に想像できる。「昔の私は必死になって色々なことを考えていたけど、年を取って、そういうのに疲れちゃって、他の人たちと同じように諦めることを選んだんだ」なんて穏やかな表情をしている、上品な女性が目に浮かぶ。
 誰に対しても親切に接し、誰に対しても恐怖心を抱かず、どんな人からも、敬意をもって接してもらえる、そういう品のいい人間として一目置かれている自分が目に浮かぶ。何もできない人間であるが、自分が何もできない人間であることを認め、他者を尊重することだけに集中している。他者が必要とする自分自身であることだけに集中している。
 そういうつまらない自分を想像して吐き気を感じると同時に、自分がなることのできるもっともすぐれた自分は、そういう自分なのではないかと予感している。

 もしそれが外れていたとしても、思ったことや言ったことによって、その結果が変わるわけではない。黙ったって、結果は変わらないのだ。私の意識は私の体に対して支配権を持っていない。それは自殺未遂をした瞬間に、失ってしまった。
 あの時からだ。あの時から、私の体は私の意識の言うことは聞かなくなった。私の意識の方が、私の体の求めているように動くようになった。
 私の意識が、私の肉体を裏切ったから、その時のことをずっと根に持っているのだ。
 だから何だという話だ。私はそれで困っているわけではない。それが悪いことであるとは思っていない。

 私は今、自分の体にとって楽な生活をしている。老人のように。
 ほどほどの運動と、ほどほどの思考。ほどほどの作業と、ほどほどの感情。
 ……ほどほどの、吐き気。健康そのものだ。気分が悪い。

 まだ自分の存在の無意味さに慣れていないのかもしれない。ずっと昔から分かっていたし、何度も言い聞かせてきたことだけれど、それでもやっぱり私はまだ、それをちゃんと自分自身に受け入れることができていないのかもしれない。
 私は凡人だ。どうしようもなく、凡庸だ。それなのになぜか「それでもいい」と思えないのだ。そう、書くことができないのだ。

 どれだけ私の意識が自覚的になったって、自分の肉体がそれに従わないのでは、何の意味もないじゃないか。心の底からうんざりする。
 心の底から自分自身にうんざりする!

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