境の神、ふたたび。水平線の太陽
今日は他の短編をアップするつもりだった。でも、やはりこちらにした。なぜかわからないけど、ほんの少し寂しくなっている。寂しいというより哀しみ?いや、きっとなぜかはわかっている。まずはずいぶん昔に見た、不思議な夢。
私は、白い一枚布を巻きつけた古代ローマ風の服を着たまま、白い大理石で作られた大浴場の湯船にいた。湯船は円形で浅い。
腰から下がお湯につかり、じんわりと温かい。浴場全体にうっすらと湯気がこもっているが、外の光が入ってきて明るい。私を含め男女数人がゆったりと下半身をお湯につけたまま、同じ方向を見つめている。
見つめた先は一段高い小さな壇になっていた。そこに私たちと同じ白い一枚布を巻きつけて着た、長いあごひげをたくわえた導師がいた。細い木の枝を持ってなにやら講義をしている。
「この天井の黄道十二宮の絵には、君たち一人一人の使命が書かれておる」
と、ドーム型の天井にぐるりと描かれた十二枚の絵を見渡しながら言った。そして私をまっすぐ見つめ、
「君は魚座だな。この絵だ」
と一枚の絵を枝で指し示した。その絵は、水平線から半分だけ出ている太陽だった。
「この太陽が、昇ろうとしているのか、沈もうとしているのか、どちらかわかるかね?」
「わかりません…」
消え入りそうな声で答えると、導師は微笑んだ。
「実はどちらでも良いのだ。重要なのは境目、ということだ。そして水平線、地平線は上昇と下降をどちらも含んでいるということだ。魚座のシンボルである双魚も同じ意味なのだ。どちらにも引き裂かれず、異なるものを括る。それが君の使命」
瞬間私はお湯から浮かび上がり、上昇を始めた。天井を抜ける。ぐんぐんスピードがあがり、みるみるうちに浴場は小さくなり、街のはるか上空、そして大気圏を突き抜けて、藍色の宇宙の闇に浮かんでいた。そしてまたぐるぐると回りながらまた地球へ吸い込まれていく。
こんな夢を見ておいて、境の神のサルタヒコのシンクロにぼやーっとしていたとは。「モノカキへの憧れ」という自分のnoteで、文字は境の神だと書いた。塞ノ神、道祖神。そしてもうひとつ最近思い出した。
いわゆる見える人に一度だけ、見てもらったことがある。その人は目を閉じ
「あの、なんか後ろにお地蔵さんが見えるの」
と言った。その時は、小さい頃、草に埋もれたお地蔵さんの回りを友達と掃除したので、それのことかな、と思っていた。
ただ一回、地獄で仏像が火で焼かれていて、衆生の罪を代わりに引き受けていることに泣けた、という夢を見た。これを代受苦というらしい。
お地蔵さんは道祖神。サルタヒコ。そして、地蔵菩薩はクシティ・ガルバ
Wikipediaでは↓
サンスクリット語ではクシティガルバ(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha])と言う[1]。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としている。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。
遠い未来に弥勒菩薩が衆生を救いにくるまで、あえてこの地に留まり苦しみから衆生を助ける役割。ふたたびWikipedia
また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。これを本尊とする祭りとして地蔵盆がある。
また道祖神のことをシャグジともいうことから、シャグジに将軍の字を当て、道祖神と習合した地蔵を将軍地蔵(勝軍とも書く)とも呼ぶようになった。
本地仏は愛宕。将軍地蔵はイザナミとカグツチ。そして白山信仰とも関係が。
将軍地蔵は愛宕神権現の本地仏。大宝年間、役小角が白山修験の開祖とされる泰澄と山城国愛宕山に登ったとき、龍樹菩薩、富楼那尊者、毘沙門天、愛染明王を伴い大雷鳴とともに現れ、天下万民の救済を誓った地蔵菩薩が、勝軍地蔵であったという伝承が残る。
ということは、サルタヒコと境の神と地蔵菩薩とイザナミとカグツチは同じ、または同じグループの神ということになる。泰澄が絡むならここでも九頭竜(菊理姫)。
なんとなく、繋がってきた。繋がってきたからといって、どうだということは何もない。ただただ、考えて書くだけ。
そしてスマホから流れてきたのはポルノグラフィティの「ヴォイス」。作詞・新藤晴一
僕の名前を呼ぶのは誰
遠いようで近いようで
耳の奥から聞こえたようで
空からのようで
お読み頂きありがとうございます!