子どもの頃の記憶の正体
顔色伺いの子どもだった私の場合
私の誕生日は祖父の命日である
簡単にではあるけれど手を合わせに大谷本廟へ行く
母の実家はもう、墓じまいをしているのでお墓も法要も無く本当に簡単に手を合わすだけ
何たる不届き者め!と言う方もいらっしゃるかもしれないけれど話の出来ない頼りない妹(私の母)や先行き心許無い私を含めたいとこたち後継などに考慮して母の姉が色々とやってくれたのでこのような形でお参りするようになった
4歳になった日に亡くなった祖父
頻繁に会うことは出来てはおらず認識している顔というのは何枚かの写真に映る姿だけ
はっきりと記憶にあるのは母の実家の玄関を入るとすぐの部屋の火鉢の前で褞袍を着た祖父が本を読んだり、火鉢で黒焦げにした梅干しを緑茶に放り込んで飲んでいる後ろ姿だけ
『おじいちゃんは、他の子たちと違ってあんまりあんたと沢山遊んだりしてないから、小さいあんたが忘れへんように誕生日に死なはったんやな』みたいなことを母や伯母、祖母からよく言われていた
亡くなった日にさえ意味を持たせたがる娘たちや妻
大きくなるとはっきりとした記憶のない『明治の男』であった寡黙で穏やかな祖父の人となりや人柄を思わずにはいられなかった
母は、嫁ぎ先で姑や小姑との関係をうまく築けなくて居心地が悪くなかなか実家に帰れなくて恋しかったからか、単純に父親のことがものすごく好きだったからか、祖父が亡くなったあたりに朝起きて『おじいちゃんの夢を見た』と話したり『おじいちゃんと鳩に餌やったお寺に行きたい』とせがむと、ものすごく喜んだ
あんたはこんな事をしてもらった、娘の私でもしてもらえなかったあんな事をしてもらって喜んでいた、など楽しそうに嬉しそうに話すのを聞いているうちにもしかしたら、自身の記憶ではない、もしくはおぼろげに記憶に残る断片的なシーンを聞かされた話でもってつなげて『憶えている』と口にしたのではないだろうか、と今になって思うことがある
子どもながらにいつも祖母(姑)にやいやい言われ、苦渋に満ちたような、結婚してからは楽しいことなどこの世にございませんというような母の顔が明るくなる事を知って口にしていた祖父との『子どもの頃の記憶』だったんではないだろうかと考えながら、強い風ときつい坂を登り切るとにぎわいの清水坂へ続く横断歩道に立つ
逃げ場のない強すぎる陽射しと、人の多さに驚きながら、お参りを済ませる
五条通を歩きたかったけれど、日陰を探しながら斜めに斜めに歩いて帰った初夏のお参りの日
余談ですけど、同じ日に生まれた人たち
片山右京
ノエル・ギャラガー
伊勢谷友介
美空ひばり
ジョン・F・ケネディ
北野大
大鵬
芦屋雁之助
神田愛花は生年月日が同じ(一緒にすんなや、厚かましいと言われたけど、顔出しなしに甘んじて自慢してます)
たったこれだけのことで舞いあがれる私
タ・ン・ジ・ュ・ン!
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