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気になるふたり

誰もさわれない ふたりだけの国


今では『KALDI』や『成城石井』、『ソニープラザ』『やまや』『ジュピター』といった輸入食品を扱うお店は京都にもたくさんあるけれど、高校生から大学生になる頃─25年くらい前─は今よりは少し特別なお店だった

近所なら阪急の四条大宮駅の近くのお肉屋さんがやっている『モリタ屋』、少し出かけて三条河原町の『明治屋』には外国のお菓子や見たことのない豆類(ガルバンゾやレッドキドニー、今思えばひよこ豆と金時豆かな)、お洒落な缶詰、パッケージデザインの凝った珈琲、美しい缶の紅茶、いろんな種類のチーズにヨーグルト(遮光の茶色い瓶に入った濃厚なトニーヨーグルト)など見慣れない食品に大興奮し長い時間物色していたものだ

他にもお店が出始めても『明治屋』は好きだったのでその日も二階で大好きな粉の塊”プレッツェル“を買いに来ていた

ドイツのパンではなくて袋に入ったモソモソとした硬いお菓子

こちらはパンの方
京都なら
左京区岡崎 ホーフベッカライ エーデッガー・タックス 
ベッカライ・ペルケオ・アルト・ハイデルベルク 
中京区のワルダー
などで売っている

棚に近づくと二人の男女が何やら熱心に話し込んでいたので後ろの棚を見るふりをしてカップルに背中を向け待っていると

『〇〇氏、〇〇氏、これがあのブッシュの喉につまった悪名高きプレッツェルというお菓子ですぞ』

『なぬ!これが噂のブッシュを苦しめた』

『そう、口中の水分を全て奪い取るという世にも恐ろしい悪魔の食べ物ですぞ』

『ならば食してみようではないか』

『おぬしは何でもやってみたがるのう』

って感じのやり取りをずーっとしていた

急いでないし、腹も立たへんし、今買わなくて良いお菓子やし、何ならそのやり取りのほうが大好物なんでしばらくやっててくれてかまへんし、ってそばで聞いていた私

うらやましいほど 誰も触れない ふたりだけの国


ずっと年賀状は、昨年初めてインターネット印刷注文というのをしてみたが、パソコンを持たない私は手書きで作成していた

表も裏も

手書きといっても干支やそれらしいスタンプとおめでたそうな色のインクを購入しメッセージスペースを空けてぺったんぺったんと押していくだけだけど

何年か前、そのスタンプを買いに、四条烏丸の東急ハンズに行ったとき真剣に選んでいたので顔は上げなかったがカップルだかご夫婦だかの会話が耳に入っていた

『あれえ、みぃちゃーん、年賀状もう書いたんだよねえ、だったらさー、ここは見なくていいじゃん』

『うん、もう書いたよ。見てるだけ、ええやん』

『見てもいいけどさあ、干支のどれかひとつを買っても来年使えないじゃん。来年も使えるかどうかってことが重要だよねえ』

『〇〇君はそうしたら良いやん、私は毎年可愛いの見つけたらその度買いたいねん』

『でもー、次は12年後しか使えないなんてもったいないよう』

真剣に選んでいたというのは真っ赤な嘘で意識はもう半分以上そちらに向けられていたが意地でも顔を見るまい、私は感情がものすごく顔に出るので下を向いたまま2人と常に対角線になるよう慎重に移動していた

すごくタイプの男の人と美しい女の人だったら立ち直れないくらい悔しいし残念に思うだろう事を想像して

男の人の喋り方も何かとてもイライラしたし、確かにもう書いたんやったら今年は見なくて良いんじゃないの?なんて“みいちゃん”にも思ったりしたけど集中できてないから全然買うの決まらないし一旦その場を離れた

うらやましくはないけど 誰も触れない ふたりだけの国

私はいつも誰も知らない小さな国のたったひとりの住人だ

小学生や中学生の頃、誰とも話をしない、挨拶もしない、先生に話しかけられても返事もしない、いわゆるグループにも属さないいつもひとりで過ごすような女の子がいた

誰とでも話すことは出来るしクラスの役なんかも積極的までとはいかなくてもやるが、テレビの話題にはついていけないし音楽や本の話はあまり合わずひとり、行動範囲をきつく決められているうえに門限があったりして放課後もクラブが終わるとひとり、必要なものを買い与えられやりたいといえば習い事もさせてはもらっていた(親からしたら何不自由させていない)が自由に使えるお金が少ない私は、結局家でラジオや音楽を聴いたり本を読んだり筋トレや素振り(剣道部なので)をしていたので、いざ遠足や修学旅行で“好きな者同士”組みなさい、余ったら”余り者同士”組みなさい、という信じられない残酷な地獄の時間に、そもそも誰かと組むつもりも素振りもない先に書いたような子と、先生に言われて度々同じグループになったりした

そう、誰とでも話せるし挨拶もするけど余り者の私

彼女らは絶対に媚びないし、愛想笑いも話を合わすこともないし、何なら挨拶もしない

その時だけだし、『そんな事くらいで』あまり友だちがいないと親に知られるのも嫌だし、上手くやるよう努めたが、マイペースを貫き通し確固たる態度で誰にも何にもなびかない感じは神々しささえ感じたものだった

そんな彼女らは高校生くらいになると、いつ見ても彼氏と腕を組み、というかぶら下がるように密着してご近所を歩いていた

母は眉をひそめて心配そうに(何をだろう)、奔放な姉の事もあり深刻そうに話していたが、心配するべきはいくつになっても彼氏の出来ないヘンコであかんたれのあなたの2番目の娘のことですよ、と心のなかで思いながら『へええ』と相づちを打つ

誰に見られても何を言われても気にしない堂々たる姿は、余り者同士組まされたあのとき感じた神々しさそのままだった

誰も触れない。。。もうええか

それらのエピソードのようなカップルやその女の子そのものがうらやましいのでなくて、唯一無二とも思える強く固い魂の引き合わせは自分自身かブレないということを貫かなければ手に入らないのだろうか

何となく無難にまとめなければ、とかあらゆるところで何となくうまくやらなければと取り繕ってしまう私

その時見たのがそうなのかは全然知らないけれどその人の前では誰よりも素でいられるのではないかという、その濃密な雰囲気が色んな所へ立ち寄って戻ってきて

うらやましい

全然そんな事を歌ってるとは思わないけどスピッツの『ロビンソン』を聴くといっつもこの何でもない事を思い出しちゃうんですよねって言う長い長いお話でした



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