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読書は心の栄養になるのか?

こんにちは。柴田と申します。

noteでの、初めての投稿です。

最近になってようやくですが、「自分がいかに何も知らないか」という真実に気づきました。その「無知」を常に自覚しておきたい!と思い、「ムッチー」と名乗ることにしました。

ってなわけで...あらためまして、ムッチーと申します(笑)。

どうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m。

さて、記念すべき第一回目ですが、“読書” について書きたいと思います。

というのも最近、哲学者のショーペンハウアーが書いた、『読書について』という本を読んで、ショックを受けたんです。

なぜショックを受けたのかって?

それは、「読書をする(本を読む)」意味を、根底から覆(くつがえ)されたからです。

「読書をする」とは、どういうことなのか?

この “問い” について、作者(ショーペンハウアー)は、こんなふうに述べているんですね。

※以下、ショーペンハウアー『読書について 第三篇「読書について」鈴木芳子訳』からの引用です。

読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に教えてもらうことだ。
他人の心の運びをなぞっているだけだ。
それは生徒が習字のときに、先生が鉛筆で書いてくれたお手本を、あとからペンでなぞるようなものだ。
したがって読書していると、ものを考える活動は大部分、棚上げされる。
自分の頭で考える営みをはなれて、読書にうつると、ほっとするのはそのためだ。
一日中、おそろしくたくさん本を読んでいると、何も考えずに暇つぶしができて骨休めにはなるが、自分の頭で考える能力がしだいに失われていく。
暇さえあれば、すぐ本を手に取り、たえず読書していると、たえず手仕事をするより、もっと精神が麻痺する。
手仕事なら作業にいそしみながら、あれこれ物思いにふけることができるからだ。
たえず他人の考えを押し付けられると、精神は弾力性を失う。

「ガーン!」やられました。まさしく自分の頭を “麻痺” させられました(笑)。

僭越ですが、この厳格にて痛快ともいえる作者の考えを、ムッチー(無知の僕)が、軽いタッチで “解釈” させていただくと、こうなります。

「読書は、自分でものを考えずにすむから、楽チン。
作者が代わりに考えてくれて、あれやこれや教えてくれるから、勉強した気分になれるし、なんか頭も良くなる気がする。
そんな感じで精神的に “ハイ” になれるから、病みつきになるのよね。
言ってみれば、精神を麻痺させる “麻薬” みたいなもの。
だけどヒマつぶしには最適かもね、読書って」

要は、いくら読書をしたところで、自分の思考を停止させて悦に入っているだけなんだから、読んだ内容が自分の身につくはずがない。

だから、読書は “心の栄養” になんてならないよ、と作者は言っているのだと思います。

なぜ、読書しても心の栄養にならないの?

この問いについて、作者はこう述べています。

読んだものをすべて覚えておきたがるのは、食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ。
私たちは書物で身体をやしない、読んだ書物で精神をつちかう。
それによって現在の私たちができあがっている。
だが、身体が自分と同質のものしか吸収しないように、私たちはみな、自分が興味あるもの、つまり自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。

(中略)
思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。
なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。

-ショーペンハウアー『読書について 第三篇「読書について」鈴木芳子訳』より-

これまたムッチー流に、噛み砕いて解釈させていただくと、

「私たちは、本を読む(=他者から学ぶ)ことで自分の精神(考え方の器)に取り入れようとする。
だけど人は、自分に興味があることや、自分の考えに合うことしか、吸収できないのよね。
食べ物と同じように、異物は吸収されず排泄されちゃう。
だから元々、自分の考え・思想を持っていないと(考え方の器をしっかり作っておかないと)、いくら本を読んでも、何も吸収できず栄養にならない(身につかない)ってわけ」

というようなことになるかと思います。

いやはや、これもムッチー(僕)には、耳が痛くなる言葉です(汗)。

気を取り直して...

じゃあ、その元々の自分の考え・思想を持つ(身につける)には、どうすればいいのでしょうか?

自分の考え・思想を、身につけるには?

この問いに対して、作者はずばり、簡潔・明快に、こう言い表しています。

本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えたことだけだ。
-ショーペンハウアー『読書について 第三篇「読書について」鈴木芳子訳』より-

本を読むこと、つまり他者から教えてもらうことで、それを自分の身につけようとする(血肉化したい)なら、

繰り返し咀嚼し、じっくりと「自分で考える」しかない!

と言っているわけですね。

ひっきりなしに次々と本を読み、後から考えずにいると、せっかく読んだものもしっかり根をおろさず、ほとんどが失われてしまう。
-ショーペンハウアー『読書について 第三篇「読書について」鈴木芳子訳』より-

次から次へと本を読み漁るのは、「食っちゃ寝、食っちゃ寝...」を繰り返しているようなもの。

食べるだけでなく “運動” もしないと、体がなまるばかりで、やがて健康が失われて(病気になって)しまいますね。

じゃあ、「考える」というのも、体を動かす「運動」と同じなのでは?

食べて、よく噛んで、そして運動することで、体力が養われる。
それと同じように、本を読み、咀嚼し、そして考えることで、精神が養われるのでは?

つまり・・・「考えるとは、心の運動である」(by ムッチー)

そう考えると、なんか少し腑に落ちた(ような気がする)...

この『読書について』という本からは、まだまだ問いを立てられます。
次回以降、さらに掘り下げて “考えて” いきたいと思います。
作者の考え・思想を、少しでも身につけたいので...

 ↓ つづく ↓


今回、得られた「気づき」

以上、

noteでの発信、第一回目。

ショーペンハウアーの『読書について』を読んで、自分なりに身につけたい基本的なイロハを、「問い」を立てながら整理してみました。

「読書とは、精神を麻痺させる “麻薬” みたいなもの。
ただ読むだけじゃ、心の栄養にはならない(身につかない)。
もし読んだものを身につけたければ、繰り返し咀嚼し、じっくりと “自分で考えよう!”
そうすることで、精神(思想の器)を築いていけるのだ」

言葉でまとめてしまうと、たったそれだけ?って感じですけど、この「自分で考える」ということが、今後の僕にとっての大きなテーマになります。

今まで「自分の頭」を使って考えてきませんでしたから(汗)。

今回、ショーペンハウアーの『読書について』を読んだことで、これまでの僕の人生は、

他人の頭で考えたことを、ただ鵜呑みにしてただけで、学んだつもりになっていた

ということに、気づかされたのです。

この気づき(プチ悟り)こそが、自分にとっての「真の価値」だと、僕は考えます。

他の誰からも奪われることのない「心の財産」です。


今後、「読書+自分で考えること」を中心に、日常体験のなかで、ピン!とひらめいたこと、発見したこと...

noteに、そうした「気づきを記録」していくことで、できるかぎり、「心の財産」を積み重ねていきたいと思っています。

記事を読み返して、「あぁ、薄っぺらいなぁ」と頭を抱えつつも、まずは、新たな第一歩を踏み出せたことに、喜びを感じています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!m(_ _)m。

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