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めいそう日記Ver3〜Day11(+1000):見ようとしなければ見えないもの


1. 瞑想小咄〜見ようとしなければ見えないもの

私たちは日々、情報の渦の中に暮らしている。テレビやスマホ、ぼんやりと歩いている時でさえ、さまざまな情報が絶えず私たちの頭の中に入ってくる。その情報を全て頭の中で処理しようとすると、おそらくあっという間にパンクしてしまうことだろう。

だから、多分脳は全ての情報を処理するのではなく、あくまでも自分にとって重要だと思われる情報から処理しようとするのではないだろうか。

自分にとっては重要な情報だったとしても、他人にとっては全く重要ではないと判断されるかもしれない。情報とは、私たちに平等に降り注いでいるようでいて、実際のところそんなことはない。当然、手に入らない情報もあるけれども、当たり前のように手に入る情報ですら、人によっては頭に入ってくる場合もあるし、入ってこない場合もある。

重要な情報とはなんだろうか。きっと、自分が生きていく中で必要なことだとか、興味のあることだとか。日々の生活の中で優先的にゲットしていきたい情報が、重要な情報だと言えるだろう。

一人一人、日々の生活は異なるし、優先順位や興味も異なるわけなので、情報の入手は人によって差が出るのは当然。しかし、同じ「自分」という人間であっても、情報の入手というのは心持ち一つで大きく変わるものだということを、最近痛感している。

ブログの毎日投稿を目標としなくなり、思いついたことがあればブログを更新することに変えてから、その変化に気づいた。以前は何らかの記事を書かなければという気持ちがあったため、日々ネタ探しをすることにアンテナを立てていたように思う。その甲斐もあってか、どうにかこうにか1000日何らかの記事を書き続けることができたわけだ。

だから、毎日更新を自分に課さなくなったとしてもこれまでと同じようにネタを掴むことができるだろうと思っていた。しかし、体感としては全く異なる。

毎日更新していた時は「ネタを探さなければ」と思っていたので、ブログの記事につながるような情報が耳に入ってきやすかったり、ネタに繋がるようなひらめきが浮かびやすかった。だが、毎日更新を目標にしなくなった今、なかなか書きたいと思うネタが浮かんでこないのだ。不思議なことに。

毎日の生活は何も変わっていない。変わったことがあるとすれば、心持ちが変わったくらいだ。「ネタを見つけなければならない」という、気持ちが少なくなってしまった。だから、ネタが見えづらくなくなってしまったのではないかと思う。

これは、ブログの記事のネタ探しだけではないだろう。おそらく、私たちの日々の生活の中でも同じことだ。何か目標があれば、それに向かって一生懸命にそれを「見よう」とする。しかし、その気持ちがなければ、ヒントとなるようなものがそばにあっても、「見えない」のだろう。世の中には、見ようと思わなければ見えないもので溢れているのだ。

逆に言えば、意識をすれば見えなかったものが見えてくるとも言える。これから先の自分がどうすればいいのか、全くわからないという人は、まず自分の進むべき道を「見よう」と思うことから始めてみてはいかがだろうか。そうすれば、見えなかったものが見えてくるはずだ。きっと。

2. 今日の瞑想〜2024.8.16  Sun 8:35〜(20min)

日曜日の朝。今週末はせわしなく、ようやくのんびりできる朝。今日はゆっくりと瞑想しよう。

今日はこの誘導瞑想。

横になったままでスタート。ガイドの誘導で、身体から力をぬいていく。余
計な力がまま抜けると、体全体がリラックスした心地に。途中、完全に意識を失っていた時間がある。リラックスしたら眠くなるのは仕方ない。メッセージは得られなかったけど、ゆっくりと時間を過ごせたから良かった。

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