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Return to Sender vol.7 | Harha

第7弾となりました「Return to Sender」。
早いものでもう7ヵ月目&今年は最後の連載となりました。今月は石本藤雄さんがマリメッコで手掛けられたテキスタイルの中から、1981年発売の《ハルハ》(Harha/迷い)について、ミズモトアキラさんに執筆頂いています。
クリスマスを連想させるカラーリングから選んでもらったきっかけから、今月もさまざまな展開に繋がっています。
妄想=ファンタジアとは、自由な能力。フィンランドの人達は、「人と違ってもいい」という教育を受けていることが、国民の幸福度クリエイティブな思考にも繋がっているとも聞きます。今の時代だからこそ、何事もずらした角度から見る視点は保ちたいですね。Return to Senderが、そんな風に、近づけたり、ずらしたりする機会となればと願います。
では、今月もどうぞ!

Harha

Text by Akira Mizumoto

今月もぼくがお題のテキスタイルを選ぶことになり、ムスタキビのアーカイヴを眺めていたところ、クリスマスカラーが目に飛び込んできて、反射的にチョイスしたのが、1981年の作品「HARHA」でした───クリスマスまでにこの文章が間に合うかもわからないのに。

さて、HARHAとはフィンランド語で幻想とか蜃気楼といった意味。抽象的で、たゆたうような、朧げで不安定な状況を指す言葉で、妄想という意味もあるそうです。*1

*1 のちほど出てくる黒川さんによるインタビューで、石本さんは〈迷い〉という意図でHARHAと名付けた───と語られているようですが、ぼくはごく一般的なフィンランド語としての〈幻想/妄想〉で文章を展開していきます。あしからず。

人間が思索にふけったり、考え込んだり、迷ったりしているときの気分を区別するために、妄想、幻想、空想、仮想、夢想など、日本語はかなり細かく単語のバリエーションを取り揃えています。

たとえばそれは、ハワイの人たちが波を、またネイティヴ・アメリカンが風の種類を分類するように、どれくらい事細かく言葉で区分するかということで、そのコミュニティにおける重要度が図れるでしょう。つまりそれだけ日本人は想像や妄想の世界を大事にしてきたという証拠なのです。

ぼくらが日常会話で〈妄想〉とそれを呼ぶ場合、想像や空想の中でも、とりわけ危なくて、イケない想像を指しますね。たとえば、ぼくは昨日、有村架純さんが本人役で出演するドラマ『有村架純の撮休』全話をネットフリックスで一気見し、もし彼女とお付き合いすることになって、初めて松山でデートするならどこに行こうか、何をご馳走しようか、と真剣に想像していたのですが───つまりこういうのを〈妄想〉と呼びます。

ぼくも軽い妄想をすることから何かを企画したり、文章を書いたり、モノを作ったりという仕事を長年やっています。しかし、実際はどこか別の世界で、まったく別の人生を生きていて、性別も年齢も異なり、この生活のすべてが別人格の妄想の産物だとしたら───こういう妄想ってけっこう怖くないですか?

ただ、病理学的な意味での〈妄想〉というのは、もっと性質(たち)が悪く、妄想をかかえた本人はそれが妄想だとまったく認識できていない状態、たとえば誰かに監視されているとか、自分はチャップリンの生まれ変わりだとか、他者が「絶対にそんなのありえないよ」「想像の産物だよ」と指摘しても受け入れてもらえず、訂正さえできない状態が〈妄想〉とされます。

さて、英語で妄想を指す言葉は一般的にDelusionですが、別の言い方にWild Fancyというものがあります。

ファンシーと聞くと、なにやらサンリオのキャラクター、あるいはクリームソーダの匂いがする消しゴムみたいなイメージを思いうかべてしまうけれど、空想、創造力、あるいは趣味嗜好という意味合い(I Have A Fancy For Coffee、といったような)もあったりします。

つまり、ワイルド・ファンシーとは暴走する想像こそが妄想───このあとに続く文章のために、今、わざとラップのように韻を踏みましたが、そういう意味合いなのです。

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ラップと妄想(=Wild Fancy)───と言えば。

スチャダラパーが1993年にリリースしたアルバム『WILD FANCY ALLIANCE』。すなわち〈妄想同盟〉。

ほんとうに大好きなアルバムで、今もよく聴き返していて、音楽だけでなく、しりあがり寿さんのイラストによるアートワーク、そして、ブックレットにメンバーのSHINCOが寄せている文章がこれまた大好きです。

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正論VS正論もしくは妄想VS妄想、これがこのアルバムのテーマです。みんな自分が正しいと主張する事だらけですから簡単には答えは出ません。一方は「君、それは間違っている」といい、又一方で「君こそそんなことは妄想に過ぎない」なんていっているのだから大変です。ですからこのアルバムで「いろいろな人がいろいろな事を考えているから楽しいね。」ということを実感してもらえたら幸いです。

この作品のリリースからすでに30年近く経過しましたが、〈正論VS正論もしくは妄想VS妄想〉の戦いは上も下も、右も左も、何年経ってもぜんぜん終わりがありません。まったくうんざりしますね。

普段くらしてると見逃しそうな
事も色々わかるようになった
はっぱの色 それらの形
ひとつひとつに表情があり
ボンヤリながめているだけでも
笑いがこみあげてくるよ
地平線の意味
ありとあらゆる単位
空気の密度 火そのもの
しあわせの構造   音
うわの空   石のドラマ
正気の沙汰   記憶のかなた
諸悪の根源   点と線
原点   じゃんけん   人間
それら全てがついさっき繋がった
ぼくはすべてを把握した

(スチャダラパー「彼方からの手紙」より)

『WILD FANCY ALLIANCE』に収録されている「彼方からの手紙」という曲を聴いていると、石本さんが自然から抽出し、さまざまなテキスタイルとしてデザインしするときの美学と、このリリックに書かれているような哲学や精神性には共通点があるように思えてきました───これもこのコラムの締切が迫っているぼくの〈妄想〉にすぎないでしょうかね?

ファンタジアとは、ある人にとっては気まぐれなもの、不可思議なもの、変なものである。またある人にとっては現実でないという意味で偽り、望み、霊感、妄想である。(中略)
ファンタジアとは何よりも自由な能力であり、考えついたそのことがほんとうに実現できるだろうか、機能面はどうだろうかとかいったことにとらわれなくていい。どんなことでも自由に考えていいのである。最高にバカげたことだろうが、絶対に信じられないことだろうが、どんなに不可能なことだろうが、それでいいのだ。

あのブルーノ・ムナーリも名著『ファンタジア』で妄想について、こんなふうに書いているし、これでいいのだ!


あとがき

Text by Eisaku Kurokawa (Mustakivi)

ミズモトさんとの連載企画・第7弾で取り上げたのは、マリメッコ社から1981年にリリースされたハルハ(Harha / 迷い)。確認できているカラーバリエーションは数種あるが、当時テキスタイルとして発売されていたのは恐らく1種。(書籍『On the Road(道の途中)』に掲載されているのは1982年のページだが、テキスタイルのミミには1981年と記載されている)

図1

2019年のマリメッコ社の秋冬コレクションでも、ドレスやテキスタイルとしてリバイバルされていて、色褪せない魅了を感じる名作。Mustakivi Kolmeでも、スタッフが制服として愛用している1着。

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ハルハは、2018年に愛媛県美術館で開催された石本藤雄展「マリメッコの花から陶の実へ」でも原画コーナーにフィルムが展示されていた。(画像 ⑦-8)
「テキスタイルをプリントする為のスクリーンを作るために、原画をフィルムに印刷する工程がある。そのフィルムの断片を展示した。」と、石本さんへのインタビューで確認。裏にあるスケッチ(⑦-7)がハルハの透明な部分から見えているので、一見別のデザインかと思ってしまう。

図3

今回の石本さんへのインタビューでは、ハルハとは「迷い、思い違い」という意味で名づけたということも知れた。筆ペンを自由に走らせて生まれた図案の魅力、それをリピートとして成立させる構成力の凄さは勿論のこと、「迷い」とネーミングしたセンスも、素晴らしくカッコいいと思う。

その他にも、新たに教えて貰えたことは、1981年当時「感情」をテーマに名ネーミングしていたコレクションがあったということ。同コレクションの中には、Ujo(恥ずかし)、Nauru(笑い)、Ilo(喜び)、Oikkuja(きまぐれ)等、ロングセラーのデザインが入っているのも、目から鱗だった。

ちなみにブルーのストライプの柄が、UJO(恥ずかし)になっている理由は、王道のストライプをリリースすることは、ちょっと照れくさい(恥ずかしい)。だから、線を描く手は震え、線が若干歪んでいる。という連想をネーミングで表現できる力も凄い。意味を知ると更に魅力的に見えるデザイン。

図4


今回もインタビュー後に感じるのは、やはり石本さんのテキスタイルデザインには、隠れたストーリーが沢山眠っているということ。


ハルハという言葉の「直訳」では不十分で、もうひとレイヤー掘り下げたところに、魅力的なストーリーが眠っていると感じる。聞かなければ分からない。昨年リバイバルされた際の公式の表記「幻想」と、今回石本さんから聞いた「迷い」では、デザインから感じられる情報量は全く違うと思う。

ただ、どのような日本語で表記するかは「自由」であり、「そこに執着することは窮屈だ」とも、きっと石本さんは言われると思うし、そこも魅力だと思うけど、でも僕らとしては、そこを十分理解した上できちんとアーカイブして、伝えていくことに使命感を感じているし、このような取り組みの先には、集大成のような”場”や”かたち”が故郷から発信できると信じている。

来年はそういったステップを一歩前進できれば。

以上、今月も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。今年も一年間、大変お世話になりました。また来年もミズモトアキラさん+黒川による「Return to Sender」を宜しくお願いします。来年こそはリアルイベントを開催しましょう!皆さん、良いお年を。

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