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一首評:藤原建一「2022年4月23日 日経歌壇」掲載歌
風に揺れる巨大クレーンの真下行く稀に倒れるがまさか今じゃない
誰もが感じるような不安と、神経症的な妄執、そして正常性バイアス……これらの間をそれこそ揺れ動くような短歌。
上の句で歌われる「風に揺れる巨大クレーン」は、もう存在そのものが多くの人に不安を呼び起こすようなものだ。加えて「クレーン」という音感自体が、中原中也の「ゆあーん ゆよーん」を例に出すまでもなく、揺れる感触をはらんでいて、さらに不安を煽る。
その上、その「真下」を「行く」となれば、圧倒的な巨大な建造物がのしかかるような心持ちで、不安は最高潮に達するだろう。
ここまでは、「あるある」に近い不安感だ。ここから四句で「稀に倒れる」と踏み込んでくる。確かにそういう事故は「稀に」目にする。目にはするが、そこまで考えてしまうのはやはり少し神経質に過ぎる気もする。藤原建一の短歌でよく見られる妄執が顔をだす。
しかしすぐさま、結句で「まさか今じゃない」と、まさに感情は揺れるクレーンのように揺り戻される。そんなおかしなことが自分の身に降りかかるわけはない、いつもよりひどく揺れているように見えるけれども、きっと気のせいだ……そう、まさに正常性バイアスの中にいる人のような感覚で歌は閉じられる。
だが、本当に「今じゃない」のか?誰しもが感じる不安と、妄執的不安と、そこからの正常性バイアスを感情が行き来する「今」、その「今」にクレーンが倒れてこないと誰が保証できるだろうか。
細かい話だが、この三つの感情それぞれの描写が「マ音」で頭韻を踏んでいる(「真下」「稀に」「まさか」)のも、作りとして巧いと思う。
誰しもが日常のどこかでふと出会いうる不安な感情の揺れ動きを、「風に揺れる巨大クレーン」を舞台装置にして、とてもリアリティのあるイヤな感じに描いている短歌だと思う。
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