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行き着かない言葉/湯浅譲二『ヴォイセス・カミング』(1969)

先日、武満徹や瀧口修造、そして実験工房のことについて少し触れた。実験工房とは、詩人の瀧口修造の下、多くの分野の若手芸術家によって結成された総合芸術グループ。1951年から1957年まで活動をしていた。

この実験工房には作曲家も多く属しており、その中には武満徹と、そして湯浅譲二がいた。

この湯浅譲二の作品の中で特に好きなものがある。テープ音楽(電子音楽の一種で、素材が録音された磁気テープを物理的に切りはりして、コラージュ的・サンプリング的な音楽を作っていくタイプの作品)の『ヴォイセス・カミング』という作品だ。

この作品は大きく3つの部分に分かれている。第1パートでは、世界のいろいろな国名が飛び交う電話交換手の通話希望者の言葉がコラージュされている。第2パートでは、インタビューの音声から、間投詞と接続詞だけが切り取られて構成されている。そして第3パートでは、マーティン・ルーサー・キング牧師と浅沼稲次郎という、暗殺された2人の演説がノイズの向こうから聞こえてくる。

私はこの第2パートが特に好きだ。「あの」「ええと」「しかしですね」といった言葉だけが延々と続き、肝心の話の内容には永遠にたどり着かない。インタビューの中身のある部分は削除され、あるいは逆再生に変形され、決して聞こえる事はない。

間投詞と接続詞の飛び交うだけで、何かそこにコミュニケーションが始まる予感は昂まっていく。でもそれは予感だけで終わる。その高揚感ともどかしさ。

何かに行き着かないという事は、永遠に何かに行き着く可能性を残すということでもある。

「正解」の言葉が思い浮かばない夜に、言葉を扱うことに疲れた夜に、私はこの音楽作品を聴く。私のとっての「言葉の重さ」を少しだけ軽くしてくれるからだ。

ちなみに、この『ヴォイセス・カミング』が収録されているCD『湯浅譲二作品集成 3』では、この曲の次に『ホワイト・ノイズによる《イコン》』が収録されている。こちらはタイトル通り、主にホワイト・ノイズで構成される、祈りにも似た音楽。「言葉の重さ」に続いて、「音楽の重さ」からも私を自由にしてくれる。

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