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一首評:木下龍也「雲の待合室」より

風の午後『完全自殺マニュアル』の延滞者ふと返却に来る

木下龍也「雲の待合室」より(『きみを嫌いな奴はクズだよ』)

この人は生き延びれただろうか、と思う。

この短歌を最初に読んだのは、穂村弘編『短歌ください 君の抜け殻編』においてだった。その時に感じたのは、「『完全自殺マニュアル』の延滞者」という不穏な存在・状況が生み出す緊張と、そこからの弛緩だった。

つまり、この「延滞者」は、自殺することなく「返却に来」た、不穏な瞬間もあったけど、ああよかった、という読みだ。

しかし、今回再度この短歌を読んでみたら、不穏さの方が上回り続けている感じがするのだ。

『完全自殺マニュアル』を返却に来たからといって、この人物が自殺をする可能性がなくなったわけでは決してない。もっと言えば、周りの人(もしくは、この短歌を読んだ人)は返却に来たことによって、「この人は自殺をしない」という物語を作りたがっているだけかもしれない。

たとえば、鬱病に罹患した人は、鬱状態から回復しかけている時に自殺をしやすいと聞く。動けないほど鬱がひどい時には自殺する行動すらできないとも聞く。この「延滞者」もまた、家で動けなくなっている状態から、少しましになって図書館まで来れただけなのではないか。

この「解消されない不穏」をこの歌から感じてしまうのは、初句の「風の」という言葉のせいではないだろうか。

もちろん、文脈によっては、「風」は爽やかであったり抜けがよかったりするイメージを持つ言葉だ。しかし一方で、「風」は、何かをどこかへ連れ去っていってしまったり、悪いものをもたらしたりする存在でもある。

この短歌での「風の」はおそらく後者のイメージだ。一日の中でも後半(下り坂)である「午後」という言葉と組み合わされていることも、その暗いイメージに拍車をかけている。

さらに、この「風の」という言葉も含め、この短歌では音感的にも不穏さが仕掛けられているのではないか、と思う。

上の句では「風」「午後」「完全」「自殺」と、ザ行音とガ行音が頻出する。強い語感の濁音が繰り返されているおかげで、上の句の存在感は強い。

ところが一転して下の句では、一度も濁音が出てこない。あまつさえ、「ふと」「返却」とハ行音が繰り返される。力の入らない音の繰り返し。

と言いつつ、下の句の中でも、結句の最後の最後に来て、「(へん)きゃく(る)」とカ行音の連続で締められる。切る、斬る、殺す、消える……強く斬りつけるような音の連なりで終わる短歌。

その結果、「延滞者」という言葉は存在が限りなく希薄になる。濁音とカ行音でくくられて、ハ行音で修飾される「延滞者」の、なんと存在の危ういことだろう。男性なのか女性なのか若いのか歳をとっているのかもわからない、ただ「延滞した」という属性だけで語られる人物。

おそらく、この音感的な仕掛けによって、シチュエーションの説明的な意味を超えて、この「延滞者」の生命としての危うさが表現されている。

だからきっと私は、こう問いたくなったのだ。

この人は生き延びれただろうか、と

私は祈る。手前勝手に祈る。どうか生き延びてくれ、と

そしてまた思うのだ。この短歌で歌われているようなことに出くわした時に、私は何ができるだろうか、と。

この短歌は、すぐれた短歌の多くがそうであるように、祈りと問いかけを呼び起こす言葉なのだ、きっと。


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