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一首評:三田三郎「自律神経没後八年」より

目覚めれば現実起き上がれば現実ちょっとお茶でも飲めば現実

三田三郎「自律神経没後八年」より(『鬼と踊る』収録)

これは、字余りと位相の異なる言葉の混在による演出が効果的にはたらいている短歌なのではないだろうか。

この短歌の各句の音数は、五七五七七ではなく、五・十・四・七・七(あるいはいっそ九・十・七・七)といったところだろうか。ともあれ、二句目が大きく字余りしているつくりになっている。

それでも、「現実」という言葉の繰り返しが生み出すリズムによって、また下の句がきっちり「七・七」を踏襲しているために、短歌として破綻している感じはない。

以前、今よりもまだ短歌を読み慣れていない頃に初めてこの短歌を読んだ特には、字余りに気づかなかったぐらいだ(それはそれでどうなのだろう……)。

おそらくこの上の句の字余りは、起きた直後のだらだら感を演出するのに効果を発揮している。

さて。事ほど左様に、この短歌は今日再読したところなのだけれども、今日読んだ時、以前読んだ時とは違う捉え方をしたのだ。

以前この短歌を読んだ時には、「朝(もしかしたら昼ごろかもしれない)だらだらと起きて、ぼーっとしながら台所か何かにおいてあったお茶をちょっと飲んで、(あんまり居心地のよくない)現実にチューニングを合わせていく人」といった映像が頭に浮かんだ。

しかし、この短歌の四句のフレーズ「ちょっとお茶でも」、これを「違うモードの言葉」ととらえると、もうちょっと別の映像が浮かんでくる

「ちょっとお茶でも」……このフレーズは、他人からお茶に誘われるときによく出てくるフレーズだ。

しかも、どちらかというと、お茶の時間を二人でゆっくり楽しみたい、というような時よりも、たとえば上司が何か非公式にめんどくさいことを言ってくる時とか、路上販売や宗教の勧誘のお姉さんが何かを売りつけたりしようと言ってくる時の常套句だ。めんどくさくてだるい事態へ誘うフレーズ、とでも言おうか

いやもしかすると、この短歌の中の人物は、めんどくさいことになることに気づかずにホイホイとお茶についていったのかもしれない。たとえば、同窓生の異性と久しぶりに会ってお茶に誘われ、楽しい話ができるかな、と思っていってみたら、マルチ商法の勧誘をされた……などなど。

このようにとらえると、この短歌は上の句と下の句で大きくカットが切り替わる映像になる。上の句までは、起きたばかりの部屋の中で現実に頭をアジャストしていく映像。

そして下の句では、パーンとカットが切り替わり、たとえば喫茶店で聞きたくもない話を聞くという現実に直面している映像。こう言った感じだ。

つまりこの短歌は、歌人・松村正直が評論集『踊り場からの眺め 短歌時評集2011-2021』の中で書いていたような、現代短歌の中でよく見られる、「位相の異なる言葉」が混在する短歌」なのではないだろうか。

(※現在、くだんの評論集が手元にないために、記憶で書いている。後日、評論集を入手したときに、もう少し正しい引用をここに書くことにする。2022年3月30日記)

(※くだんの評論集は変わらず手元にないが、書店にて確認して、引用を正確にした。 2022年4月2日記)

そのような視点で見ると、下の句が上の句と比してきっちり定型を守っているのも、短歌として着地させるためだけでなく、場面転換の演出の一環とも見てとれる。だらだらとした室内での時間から、外の世界(社会や世間と言い換えてもいい)でのフォーマルな時間への転換の表現だ。

部屋の中でも街に出ても押し寄せる居心地のよくない現実。この読み方の方が、この短歌の中での人物の閉塞感が、より感じられる。

再読することによって、随分と別の景色が頭に浮かんだ。こんな読み方もできるのではないだろうか。


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