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『釈迢空全歌集』を読み始める、色々と考える

「民俗学者の折口信夫と歌人の釈迢空が同一人物である」ことを、いまさら知ったという話を昨年秋につぶやいていた。

その頃から探していた、角川ソフィア文庫の『釈迢空全歌集』が今日ふいに古本屋で見かけて購入。

折口信夫(岡野弘彦編)『釈迢空全歌集』

深夜、なんとなく読み始め、まだまだ歌集『海やまのあひだ』の出だしのあたりを読んでいるところでしかないのだけれど。

さっきから妙な考えに取り憑かれて困っている。これが自分なりの直感で面白いことに気づけているのか、ただの深夜から明け方にかけての妄執なのか、どうにもわからない。

話もまとまっていないが、とりあえず書いておくことにする。以下は、短歌初心者の戯言ぐらいに思ってください。

釈迢空の世界のすくい取り方が、他の(同時代……大正時代前後の、私が知る範囲の)歌人と根本的に違う気がするのだ。

「世界とは自分との関係性の中で立ち現れてくるもの」「自分がそこに居る(行く)ことによってはじめて世界が出現する」……そういう感覚が濃厚なのではないか。

「そこにあったその出来事を私が見つけました」というよりは「私が居ることによってその出来事が立ち現れました」という歌い方のような気がするのだ。

たとえば、最近読んだばかりの近代歌人からの引用になってしまって、私の底の浅さが知れそうだが、木下利玄の短歌は「そこにあったその出来事や景色を私が見つけました」感が強いのだ。

向う岸の崖の日なたの南天の赤き實よ實よさなむづかりそ

木下利玄「旅の雪」より(『銀』収録)

ちょうど、期せずして近い時代の話だが、タゴールとアインシュタインの対話(「あなたが見ていない時にも月はそこにあるのか」という有名な問い)に通じる、世界観の違いの話だ。

うまく言語化できているかわからないし、「同じことなのではないか」という反論もありそうだが、私のなかの感覚では、この世界観の違いはとても大きく感じるのだ。

山深きあかとき闇や。火をすりて、片時見えしわが立ち処(ど)かも

釈迢空「夜」より(『海やまのあいだ』収録)

高く来て、音なき霧のうごき見つ。木むらにひゞく われのしはぶき

釈迢空「木地屋の家」より(『海やまのあいだ』収録)

あるいは。

これは、折口信夫の民俗学の上での業績に引っ張られているのかもしれないが、自らを「まれびと」とみなす感覚が根底にある気もする。どこまでも自分は「外部の人間である」という感覚。

調査者、フィールドワーカーとして感覚、と言ってもいいかもしれない。

網曳(あび)きする村を見おろす阪のうへ にぎはしくして、さびしくありけり

釈迢空「蜑の村」より(『海やまのあいだ』収録)

まだ、歌人・歌集の勉強は甚だ不足しているので、安易なことは言えないが、この世界のすくい取り方に一番近いのは、奥田亡羊の第一歌集『亡羊』だったような気がする(いま手元になくて、確認はできないのだけれども)。

言葉や出来事と、自分自身との距離感の類似性、と言えばいいのだろうか。

宛先も差出人もわからない叫びをひとつ預かっている

(奥田亡羊『亡羊』収録)

さらには、鈴木晴香の短歌とも通じる気がする。その歌人がそこにいて、言葉を、短歌を発することによって、新たな世界が現れる感覚。新しい世界からの異議申し立て。

冷たいと思わないと思われている鮮魚は氷の上に眠って

鈴木晴香「ここにいるしか」より(『心がめあて』収録)

……どうにも、うまく文章はまとまらない。ここまで書いた文章のなかだけでも甚だしく矛盾をはらんでいる気がする。

また、歌人それぞれがどちらの見方しかしていない訳ではなく、タゴールとアインシュタインの間をいったり来たりしているだけかも知れない。

ただ、一つ言えることは、この釈迢空の世界のすくい取り方(と、私が勝手に感じているもの)に、今の私は強く共感を覚える、ということだ。

さらに『釈迢空全歌集』を読み進めていこうと思う。



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