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オリックス

オリックス、パリーグ二連覇おめでとう。

今の時代、もはやプロ野球なんてしょせん数多くあるたのしみのひとつに過ぎないが、昭和生まれのおっさんからすると、やはり娯楽の王様はプロ野球である。昭和の親父は、晩酌しながらプロ野球中継をみて死んでゆくものと相場が決まっていた。

関西人の私がこんなことを言えば、サンテレビのタイガース中継を連想する人もいるかもしれない。ところが、家でついていたテレビはずっと巨人戦だった。別に父は巨人が好きなわけでは決してない。いわゆる「アンチ巨人」というやつで、巨人贔屓の引きたおしな解説のひどさやら、エガワル選手の悪口やらをあれこれ愚痴りながら、瓶ビールをちびちび飲むのが父の日常だった。この「アンチ巨人」なふるまいについては、何が楽しいのか、今なおよく理解できないのだが、その一方、なぜ阪神の中継ではなかったのかということに対する答えは明快で、父は阪神にルサンチマンの念を抱く在阪パリーグファンであり、その中でも王道とも言うべき、誇り高き南海ファンだったからである。

昭和末期まで、パリーグ6球団のうち3球団(南海ホークス・阪急ブレーブス・近鉄バファローズ)が関西を本拠地としていた。つまり、パリーグの試合の半分は関西の中をぐるぐる回るだけで、関西の地域リーグのような雰囲気さえただよっていた。そんな在阪パリーグの盟主的存在であった南海を愛する父に、幾度となく大阪球場に連れて行かれたものだが、南海対近鉄の試合を初めてみたときの衝撃は今でも忘れられない。

大阪球場は、なんばパークスがたつ場所にあった南海のホームグラウンドである。整備が不十分な古ぼけた球場で、そこには酒やけしたおっちゃん達の汚いヤジと、法華経でも唱えるときのような鐘や太鼓、そして笛を中心とした地味な応援、構内売店は近くに店がある551の蓬莱のみ、あとは見渡すかぎり空席が連なる急勾配なスタンドがあるだけだった。その試合では、たしか藤本が先発で、ドカベン香川とのバッテリーで試合に臨んでいたが、リードされたまま9回裏、香川に代打を出されたのを見て、激昂したドカベンファンの父がそれまで聞いたこともないような汚いヤジを飛ばす始末。結局、その試合は南海が負けた。

試合後、二人しょんぼりして球場から出てくると、つい先ほどまでキャッチャーマスクをかぶっていたドカベンが、自転車でよろよろ帰ってゆく。草野球でもひと試合終えたかと見まがうのんきさのどかさだ。とにかく、大阪ミナミのど真ん中で、なんとまあこんな関西を煮しめたような光景が、一年の半分くらいは繰り広げられていた訳だ。大阪を中心と仰ぎみて暮らす関西人は、幼い頃から要所要所で大阪という鈍器に脳天をガツンとやられながら成長するものだけど、この日も思いっきり大阪に後頭部をしばかれた私は、父と高島屋本店の向かいにあった南街会館のニューミュンヘンで若鶏の唐揚げを食べ、家に帰った。

私をホークスファンに仕上げようとたくらむ父のもくろみ通り、南海が好きになりつつあったから、そのまま応援し続けても良かった。それでも、私は当時神戸に住んでいたこともあり、暇があれば近くの西宮球場に通いだすようになった。結局、気がつけば一丁前に阪急ファンのできあがりである。「半ドン」の土曜日、四限までの小学校を終えてデーゲームの野球を見に行くこともしばしばで、まだ田舎風情の残っていた西宮北口駅を降りて球場に向かう。小学校の同級生は当然阪神ファンだらけだったし、阪神のことも別に嫌いではなかった。もっとも、父は渋々西宮球場へは連れて行ってくれる一方、甲子園に見向きもしなかったこともあって、すでに阪神は遠い存在だった。いちど父に甲子園へ行きたいとせがんで、「あんな混んでるところ行くもんちゃう!」と返された記憶がある。これは今でも(ソフトバンクを除いて)パリーグファンの胸をうつことばだと思う。

西宮球場は、大阪球場より格段に立派で、アストロビジョン付の電光掲示板を備え、広さも申し分のない球場だった。その頃の阪急は、栄光の時代は終わってはいたが、強敵西武を相手に善戦していて、毎年Aクラスに入るくらいには強かった。福本、弓岡、松永、石嶺、蓑田、そしてブーマー。投げては山田、山沖、今井、星野。アニマルというキャラ先行のリリーフもいた。正捕手は藤田だったか。ただ、南海や近鉄と同じく、客の入りは絶望的に悪かった。

すでに球団経営への興味を失っていた南海の雰囲気とは異なり、阪急は(そして近鉄もだが)それなりに企業努力を重ねていた。沿線の小学校に、あるいは新聞の販促として大量の無料招待券をばら撒いて集客を図ってはいたが、目立つ空席にむなしく手をふる着ぐるみのブレービーを見て、子供心に「なんでこんなに人気ないんやろ…」と悲しくなったものだ。清原の人気が凄まじかった一時期は、ライオンズ側だけびっしり女性ファンで埋まっていたこともあった。何もしなくても弱くてもいつも大混みの甲子園とは雲泥の差、学校では人気のない阪急なんか応援して、と阪神ファンの同級生にバカにされたことも一度や二度ではない。こうやって、少しずつ在阪パリーグファンの心はゆがめられてきたのである。「みんなが好きなもん応援して何が楽しいねんアホか」という思いを噛みしめながら、関西で生きてゆくために阪神が勝つとよろこぶふりをして同調圧力に耐える日々が、その頃から今に至るまでずっと続いている。これは歴とした迫害である。そんな親子二代にわたるルサンチマンの炎が灯った瞬間でもあった。

その後、阪急はオリックスに身売りし、神戸を本拠地に構えることとなった。阪急がなくなるさみしさはもちろんあったし、西宮は大好きな球場だったけれども、同じ市内に球団が移転したときの喜びはそれを埋めるほどに大きく、グリーンスタジアム神戸(現在のほっともっとフィールド神戸)にも引き続き足を運んだ。特に、阪神・淡路大震災の苦しみに寄りそって球団があったこと、そして優勝したことのよろこびは語りつくせない。ただそんな時でさえも、地元紙である神戸新聞は、トラキチ紙として全国に知られるデイリースポーツや、タイガース中継で潤っているサンテレビの親会社でもあるから、オリックスに対する扱いは最悪だった。関西の偏向したマスコミは、空気のようにふわっとした阪神ファンの粗製乱造、大量生産に明け暮れている。こうやって関西の息苦しさが強化されつづけた挙句、グループ全体の経営悪化も重なって、在阪パリーグでは最後まで残ると目されていた近鉄すらも消えてしまった。

そして、在阪パリーグはオリックスただ一球団になった。合併騒動前後の複雑な感情は思い出したくもないが、正直、合併してバファローズというチーム名になった時は心底がっかりした。南海・阪急・近鉄の長年いがみ合ってきた間柄はなお尾を引いていて、それはしょうもないことに、各球団を有していた私鉄沿線をベースとした地域対立の構図によるところが少なからずあった。個人的にも、当時の近鉄に対して好ましく思う感情は一切なかった。何よりも、なぜブレーブス、あるいはブルーウェーブを名乗らないのか!阪急が正統な前身球団なのに!そう思ってオリックスの応援をやめていた時期も長くあった。

ところが、時が経ち、今またこうやってオリックスを応援している。近鉄らしさが色濃く残る現在の応援スタイルは大好きだし、そうやって近鉄の歴史がオリックスに受け継がれていることを誇らしく思えるようになった。そんな中でも今もブーマーのヒッティングマーチが流れ、もちろん言うまでもなく中嶋監督や福良GM、田口コーチなど、かつてのブレーブスやブルーウェーブの系譜は健在である。在阪パリーグの「いいとこ取り」した球団になったんだなと、しみじみする。

もはや、南海・阪急・近鉄の時代は過ぎ去った。パリーグでひとつのチームを抱えるのがやっとのところまで、なにかと関西は衰退してしまった。だから、阪神的なものに違和感をもつ関西の野球好きは、みんなでオリックスを支えるしかないのだ。もっと言うと、阪神ファンが強いオリックスをみて、うっすらとしたニワカファンになってくれたら、とすら思えるようになった。今年、クライマックスシリーズ第二戦を京セラドームで観戦したが、二階席は空席が目立っていて、もしかしたらわれら在阪パリーグファンのルサンチマンにこそ問題があるのではと、今更ながらに反省したということもある。ニワカファンでも、阪神や他球団との掛け持ちファンでもなんの問題ない。少しでも今のオリックスに興味を持ってくれるのなら、京セラドームやほっともっと神戸の試合を見にきてほしい。特に京セラドームは、大阪のど真ん中、関西の中心にある。大阪に暮らす人、そして大阪に関わりをもつ多くの人に足を運んでほしい。

プロ野球は、地域という縁でゆるくつながる想像の共同体だ。それは球場に来れば分かる、球場以外では自分の人生でおよそお互い交わることのなさそうな、さまざまな種類の人びとに会うことができるのだから。性別(女性選手も出てくると良いけれど)・年齢・収入・職業・国籍。属性は違っても、等しくみんな何者にもなれなかった自身の夢を選手やチームに付託しているからこそ、尊い。何者かになることばかりが求められる息ぐるしいこの時代、プロ野球を楽しみに平凡な人生をのんびり送るという生き方も、決して悪くないはずだ。

オリックス、パリーグ二連覇おめでとう。
本当にうれしい。

ほっともっと神戸。感情があふれる場所
いてまえ魂、青波魂
阪神が早々に負けて角打ちでもオリ戦。それでいい

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