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「ブランチとコヒーレント」のこちら側

という事で、2021年5月4日に始まったこのお話は、2024年1月28日に幕を閉じました。期せずして、日数はぴったり1,000日。ドラマを感じますね。

1,001日目以降は元に戻ってしまったかというとそうではなくて、面白い友達が増えて、30年の空白を開けてまた自分の元に音楽が戻ってきました。

このお話は常に私の一人称視点、私からの一方的な視野、現在形で書くスタイルで統一しました。

これは櫻木ねこさんと私の間というアイドルとファンという関係性すら構築できなかった残念な感じや、相手と自分の見ている世界がまったく被らないどころか分岐し、先細って最後に途切れてしまう様子を表すのにちょうど良いと考えてこのような形にしました。タイトルにある「ブランチ」はこれを意味します。

一方で、色々な経緯や成り行きで、皆互いにコミュニケーションをとりながらその関係性が変化していったり、次の行動に反映されていったりという変化は確かに存在し、少なくも私はたくさんの影響を受けてきました。タイトルの「コヒーレント」がそれです。

このお話を書き始めた当初からこういうお話の流れになるという確証のもと、書ききれなくて事実を端折ることはありましたし、私の視野という限られた範囲ではありますが、起こった事象については事実とは異ならない様、私の主義を押し付ける事にならない様に気をつけました。

こうする事で、読んだ人には "何があったか詳細はわからないけどねこさんの立場もなんとなく想像つく" 様に私からの視野を描写しつつ、盲目的に賛美・美化することもせず、ちょっと生々しさがあって、読む人からすると私の視線を覗き見のような感覚を持ってもらったら面白いかも?と狙いました。果たして、これを読んだ方々はこんな感覚になってもらえたでしょうか。

多分、ねこさんガチ恋勢は私の考えをねこさんに対して一方的に押し付けているだけだ、ねこさんの立場に立ってみろキモオタが、と断罪するでしょうし、正統なオタク勢はそれは正しいオタクではないと説教するでしょうし、ねこさんの関係者から見れば私から見えないねこさんの行動や言動を補完して苦笑するでしょうし、完全な第三者の立場の人からしたら面白くもなんともないお話だと思います。

うわ、誰にも褒められない書き物だな、こう振り返ってみると。

私が仕事で書く文書は仕様書や設計書といわれるものです。書き手と読み手ができる限り厳密に理解を一致させるためのものであり、できる事とできない事の境目を明確にしないとなりませんし、書かれている事は、実際に作るより前の段階であるにも関わらず後で実現できなければなりません。

一方で今回の様な文章は、作った人の意図がそのまま相手にも同じように届くということはまず無くて、受け手によってその解釈は千差万別。これは興味深い現象だと興味をそそられました。

きっかけは、いわゆる地下アイドルが演じるステージを私が観て、その背景を実際にその地下アイドル自身から話してもらい、その様子と私が観た射影の違いに驚いた事でした。

私の興味の対象となった櫻木ねこさん、そして彼女が演じた燎(かがり)という吉岡 果南さんとの二人組ユニットは、ファンとのコミュニケーションを反映した色々面白い活動をしてくれました。例えば「リリックフォトブック」と呼ばれる冊子があります。

作者自身によるライナーノーツのようなもので、楽曲だけでは得られない背景や解説を通じて、アフィン変換前の数値を見るかのような、更には変換の関数を理解したような感覚です。

メジャーなアーティストでもこの類の情報は出てくるのかもしれませんが、どうもたくさんの人の手を介して出されたものに感じられる一方、インディーズの世界ではこの様な当事者からのダイレクトな感じが強く、なかなか得られない感嘆でした。

カフェバーで雑談をしていた時にねこさんから教えてもらった事なのですが、歌詞は環境・状況を想像させる描写から始まり、心情の描写を経て主人公の行動へと繋がるというセオリーがあるそうです。

果南さんは自らの体験がおそらくその源泉にあり、全般的にそこから自身の日記の様にそれが綴られています。果南さんの心の中を覗いているかの様。

一方ねこさんは比較的具体的なシチュエーションの描写を伴った登場人物の心情であったり(「四葉」)、架空の人の架空の世界であったり(「花とピリオド」)、はたまた燎のその時をモチーフにしたもの(「Monster」)だったり。ねこさんの心の中というよりも、設定があって、かつ受け手に補完させたり経験や感覚を重ねさせて詩を解釈させるような感じ。

これらは楽曲を聴くだけでなく、燎の二人と実際にいろいろなコミュニケーションをとる事で、送り手と受け手の違いや、ねこさんと果南さんの違いであったり、振り付けにもそういう観点がある事を知るに至りました。

こういう受け側の解釈の余地がある世界、そして、私もこういう書き手と読み手の見ている像が違う世界を、書き手の立場から体験してみたいと考えました。私はこのようなものを作った事がなく、多分、ここまで読み手によって読まれ方が変わる題材もなかなか無いと思います。

また、私は今までに「推し活」を経験したことがなかったので、こういう点でもなかなか機会のない良い題材だと思っています。経験が新鮮であればあるほど、ある時は勢いよく道端のうんちを踏んでしまう事もあるだろうけど、タブーや固定概念にとらわれない視点が得られるだろうという期待をこめて、まるで自身のだらしない体のヌード写真を撮っているかの様な題材。
やっぱり私は根がパンクでアングラな気質なんでしょうね。

なので、自身の初めての経験である推し活を、その時感じた事を鮮度が落ちない様、実際にそれが起きた時からできるだけ時間が経たないうちに文章にしました。ターゲットになってしまった櫻木ねこさんにまず感謝と謝罪を申し上げます。ありがとう、ごめんね。

このシリーズ、各回のお話は題名にかっこ書きの連番が振られています。そして23話から25話は欠番となっています。この間にもお話はあるのですが、数字を抜くことでお話の流れが変わった事を表しています。さて、何があったのでしょうか。

結局のところ、私はねこさんと接する機会は推定でこの1,000日間で十時間程度とほぼ無いに等しく、彼女の事をまったく知りません。という事で、ねこさんってこうなんだよな的思考に陥らないように、そういう表現に繋がらないように、お話がギリギリ繋がる程度までねこさんに関する描写を抑え、読んでいる人に補完してもらう事にしました。

描写が無い部分はいわゆるインディーズアイドルとオタクのよくある光景だと思います。そこはご自身の想像や経験で補完してみてください。もしくは、どうしても一方的過ぎて目的を果たせない書き方しかできなかった場合もありました。それはまあ、そう言う事で。

ねこさんからは「これじゃあ私、変な人じゃない?」と言われた事もありましたが、そんな事はないです。

公開する際に躊躇することはありましたし、公開後に非公開に戻そうかと思った事もありました。このお話を書いたことでブランチの原因となってしまったり失ったものすらあったと思います。

まあ人間関係はそんなシンプルなものではなくて、言葉足りず衝突したり、すれ違ったり、些細な事から端を発して後戻りできなくなったり、かと思えば思わぬところでシンクロしたり。これぞ人間関係の妙と思います。ブランチとコヒーレント。

これは間違いなく今回得られた私の宝物の一つでした。そしてそれに彩りを添えてくれた周りの方々との時間は、これまたかけがえのない宝物です。

こうやって私に接してくれた吉岡果南さん、友達のみなさんに感謝を申し上げます。

私はここ10年ほどの間、高校の時の同級生とはなんだかんだ年に一度ほど集まって、飲み食いしながら昔話と今の状況を織り交ぜながら笑い話をしています。高校生の頃は仲が微妙だった人も相当の数いますが、不思議なもので当時のそういう間柄を互いに認めつつも大笑いしながら打ち明け話したりしています。

当時表に出していた姿勢とは別に、内心同じことを思っていたり、実は相手の立場を想像できていたり。その時は異なる視野だった人たちも、年月を経て更に色々な経験をしていった後に、行き着く先では笑い話にしながら、また新たな関係を築いていけたりするもので、これは本当に幸せな事です。

そういう事もあって、すごく時間が経ってまたみんなと再会するような機会があるならば、その時は当時の気持ちをみなさんと語りながら過ごせる時間があったらなと思っています。その記憶を辿る時のネタとして、私が撮った写真やこの文章があったら幸せです。

10年後とかに、大笑いしながら昔話ができたら。
またいつか。


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