【サロンから見る音楽史】 vol.8 なぜパリは芸術の中心地になったのか

フランスはヨーロッパの中でも、最も早くに市民階級が権利を得て、自由主義の社会を手に入れた国です。


各地で同じように人々が刺激を受け、革命と弾圧が活発化し、混乱した世の中へとなっていきます。

そんな中で、すでに新しい時代を歩み始めていたパリには、イタリアやポーランドなど、たくさんの貴族たちが亡命してきました。


これが、芸術の先端がパリへと集まった大きな理由です。


外国人貴族たちは、教養の面でも財力の面でも、やはりそれだけの度量がありました。

そして音楽と音楽家への理解も大いに持っていました。


パリで保護を受けた音楽家たちの優れた演奏会が開かれるたび、その魅力に気付く人も増え、さらに優秀な人材の集まる場所となり…

そのような相乗効果を生み出しながら、パリは芸術家たちの目指すべき「夢の都」となったのです。


ヨーロッパの音楽家たちはみな、パリを目指しました。

パリで認められてこそ、一流の音楽家である、というように。


ただし、そんな花形サロンのしのぎ合うパリでも、最初のころは超絶技巧を持ち、曲芸のように人々を圧倒させることを目的とする音楽家たちがほとんどだったようです。

それは音楽家たちの意志だけでなく、庇護者であるご婦人方の好みでもありました。


生活自体を助けてもらっている音楽家にとっては、やはりお世話になっているご婦人から

「あちらのサロンよりもあっと言わせるような、派手なものにしたいの」

と言われてしまったら、そうするしかなかったのでしょうね…


初期のスターの代表格といえば、カルクブレンナーとフンメルです。

フンメルは、当時ヨーロッパにいれば知らない人はいないと言われるほどのピアニストであったと同時に、あのベートーヴェンよりも人気を博していた作曲家でもあり(!!)、さらに教育者としての活動にも尽力した、いわば重鎮でした。


重鎮の気に入るもの、派閥でないものが苦労を多くするのはいつの時代、どの世の中でも似たり寄ったり。


そんななか、新たな旋風を巻き起こす少年がパリへやってきます。

次回はその音楽家についてのお話です😊


その少年もまた、多くの苦労をしました。

そしてそれを華麗に乗り越えて、自らの人生と、音楽界の未来をも切り開き、私たちにたくさんの贈り物を残してくれました。

クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/