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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 9

第一楽章 シューマンの物語


8、新しい仕事

 こうして、作曲家としての「修業」を重ねるシューマンですが、一番の楽しみは仕事を終えてお酒を飲みながら仲間たちと音楽や芸術の話をする事でした。 特に、バッハやゲーテも通ったことで有名な古い酒場「カフェバウム」は、
いつしか理想に燃える若い芸術家たちが集まって芸術について熱く語り合うたまり場になっていたのです。

「最近の音楽会は、いつも同じような曲ばかりで全く面白くない」
「プログラムを決める偉い人たちは、頭が固くて新しい音楽を認めないんだ」「亡くなったばかりのベートーヴェンやシューベルト、ポーランドのショパンや、このライプチヒ出身のメンデルスゾーンなど、素晴らしい音楽家が沢山いるのに・・・」
「我々は、新しい時代の芸術のために、権力をふりかざす頭の固い連中と断固闘うぞ!」

大いに盛り上がっている仲間たちの話を、シューマンは店の片隅で静かに聞いていましたが、やがて葉巻をくゆらせながら、
「そのためには我々が団結しなければいけない。ここで、こうやって議論しているだけでは始まらないだろう。行動を起こさなければ」
と、静かに、けれど力強く言いました。それを聞いて仲間たちは口ぐちに叫びます。

「確かに、最近は音楽の批評をする雑誌も出ているが、どれも偉い人たちにお世辞やおべっかをつかうばかりで、本当の事をだれも書いていない。ぼくたちは、誰にも遠慮しないで思ったことを書いていこうじゃないか」
「フロレスタンやオイゼビウスのように・・・か。シューマンが書いたショパンに関して書いた論文はとても面白かった」

「ロベルト・シューマン、君が中心になって皆をまとめてくれ。我々の手で新しい音楽の進むべき道を切り開くんだ」
と、ヴィーク先生も、大賛成です。

 こうしてシューマンは、得意のペンを生かして「音楽評論」の仕事を本格的に始める事になりました。空想の中のダヴィッド同盟がここに現実のものとなったのです。
 とはいえ、新しい雑誌を作るのは簡単な話ではありません。
次から次へ問題が起こり、やるべき仕事は山のようにあります。
大きなストレスは、人一倍繊細な彼の心をしだいに追いつめてゆくようになってしまいました。
 そんな矢先、大好きだった兄嫁のロザーリエが病気で急に亡くなるという悲しい出来事がありました。シューマンの心は大きく落ち込み、このまま自分で命を絶ってしまうのではないかという恐ろしさと一晩中闘わなくてはなりませんでした。
 その夜の事「10月17日の恐怖の夜」をシューマンは忘れることができません。弱ったシューマンの心に追い打ちをかけるように、11月にはお兄さんのユリウスが亡くなるという不幸が続きます。シューマンは部屋の窓から飛び降りてお兄さんたちの後を追うようなことになったら大変だと、1階の部屋に引っ越しをします。ガラスのようなシューマンの心は今にも砕けてしまいそうでした。

しかし、「こんな事ではいけない」と感じたシューマンは活気を取り戻し、仕事をすることで自分の心を立て直そうと新しい雑誌の準備に打ち込みます。
やがて新しい年を迎え、シューマン自身が「今年はぼくにとって最も重要な年になる」と言った1834年の4月、彼は同い年のピアニストで、大変信頼していた親友シュンケらとともに「ライプチヒ音楽新報」という雑誌を週2回発行することになりました。

 中心になって書いていたのは勿論シューマンで、雑誌は順調に読者を増やしてきました。しかし6月には編集長をしていたクノルが病気になり、12月にはシュンケが亡くなってしまい、雑誌を続けることが難しくなってしまいます。
 そこで、翌年雑誌は「音楽新報」と名前を変え再出発することになりました。雑誌には音楽会の批評や、海外の音楽界の様子、音楽の進むべき道など盛りだくさんの内容で、取材から執筆は勿論、多くの雑用をシューマンひとりでこなす事になり大忙しです。
 しかし、この「音楽新報」はシューマンが編集長を辞めた後は勿論、現在に至るまで続くほど、音楽界では権威のある雑誌にまで成長することになるのです。シューマンの才能や考え方がいかに進んでいたかということの証の一つですね。

 しかし、雑誌の編集に、作曲にと仕事に打ち込む一方で、シューマンは相変わらず不安定な自分の心を持て余していました。
 悩むシューマンにお医者さまは
「お嫁さんをもらいなさい。そうすれば治りますよ」
 と、アドバイスします。

「結婚・・・か」
 気が付けばシューマンも23歳。そろそろ身を固める年頃になっていました。



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