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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 3


第一楽章 シューマンの物語

2、少年時代の光と影

 10歳になると、ロベルトはギムナジウム(日本で言う中学・高校)に進学します。自由で芸術も盛んなこのギムナジウムで、ロベルトはその才能を生かして大活躍。ピアノの腕はますます上がり、ギムナジウムの音楽会で演奏したり、クンチェ先生が教会で指揮をしたオラトリオではピアノパートを任されたりと「ピアニスト」としての活躍も始めるようになりました。

 12歳になったある日、ロベルトはお父さんが取り寄せてくれた楽譜の中に間違ってオーケストラの楽譜が入っているのをみつけました。どんな曲なのか知りたくなったロベルトは

「皆でオーケストラを作ってこの曲を演奏してみないか?」

 と、ギムナジウムの仲間たちに声をかけました。面白そうだと集まってきた楽器の弾ける友達は8人。人数も楽器も足りません。

「大丈夫だよ。足りない楽器の所はぼくがピアノで弾くし、指揮もぼくがするから。練習や演奏会はぼくの家ですれば良いよ。ぼくの家族はみんな音楽が大好きだから大歓迎さ」

 お父さんはもちろん大喜びです。

「それは素晴らしい。オーケストラとなると譜面台がたくさんいるな。それは私が用意しよう。そうだ新しいピアノを買ってあげよう」

 と、とても熱心に応援してくれました。そのおかげでコンサートは大成功。気を良くしたロベルトたちは、次々と色々な曲に挑戦し、ロベルトもこのオーケストラのために、序曲やオラトリオなどを作曲するようになります。

 いつしかロベルトは「ぼくは音楽病だよ」というほど、音楽なしでは考えられないような毎日を送るようになりました。ツヴィッカウの町でも、シューマン家のロベルト君はピアノがとても上手らしいという評判が広まり、あちこちのホームコンサートにも招かれて演奏するようになります。

そんなロベルトに、クンチェ先生は

「もう、私に君を教えることはできないよ。後は自分で勉強しなさい」

 と、誇らしい気持ちで、そしてちょっと寂しい思いで告げたのでした。

 その一方でロベルトは、文学病や演劇病にもかかっていました。家にある読みきれないほどのたくさんの本を片っぱしから読みふけり、自分でも詩や文章を書きます。読んだ本の中の気に入った文章や詩は「金色の牧場から採られた草花」というノートにまとめ、繰り返し読みました。

 さらに、仲間たちとお芝居も作り、こちらもまたシューマン家のリビングで皆さんに披露し、拍手喝采かっさいを浴びます。

「あの子には音楽だけでなく、文学にも才能があるようだな」

 優秀な息子の才能をもっと伸ばそうと、お父さんは、自分の出版する本にロベルトにも文章を書かせてみることにしました。「全民族・時代著名人物図像誌」という本にわずか14歳のロベルトの立派な文章が残っています。ロベルトはお父さんの大切な片腕になりつつありました。

 15歳になると、ロベルトは学校の仲間を集めて自分たちの国・ドイツの文学を研究しようという「ドイツ文学研究会」を作りました。この会ではシラーなどドイツ人作家の作品を皆で研究したり、自分たちが作った詩や文章を皆で批評しあったりしていて、ロベルトはリーダーになって活躍しています。

才能あふれるロベルトはお父さんにとって自慢の息子です。

「音楽も、もっと良い先生に習わせてやりたい」

 教育熱心なお父さんは、有名な作曲家のウェーバーに直接手紙を書いて、息子の先生になって欲しいと頼みました。
優等生で、才能にも家族にもお金にも恵まれ何不自由なく過ごしてきたロベルト。

しかし、不幸は突然襲ってきました。

「大変だ!エミーリエが・・・・! お姉さん、しっかりして」

 ロベルトが16歳の春。大好きだった姉のエミーリエが突然、命を絶ってしまったのです。もともと病弱で、心の病にもかかっていたエミーリエですが、優しくてロベルトの才能をよく理解してくれた大切なお姉さんでした。シューマン家の悲しみは深く、中でも大事なひとり娘を失ったお父さんのショックはとても大きなもので、すっかりふさぎこんでしまったのです。

 そのショックが引き金になったのでしょうか。エミーリエが亡くなって半年も経たない8月10日、今度はお父さんが、まるでエミーリエの後を追うように突然この世を去ってしまいます。まだ53歳の若さでした。大黒柱のお父さんを失って、シューマン家は火が消えたように沈んでしまいます。特に、尊敬するお父さんと、大好きなお姉さんを一度に亡くしたロベルトの悲しみは深く、元気で皆のリーダーだったロベルトは、いつしか家に閉じこもりがちになり、暗く大人しい性格になっていました。

「ぼくはこれからいったいどうしたら良いのだろう・・・」

何をする気力もないロベルトは、元気を取り戻そうと素敵な女の子に恋をしたてみたり、お酒や葉巻を楽しんでみたりするのですが、何をしても心は晴れません。

 そんな時、ロベルトを慰めてくれたのは、やはり本と音楽でした。残念なことに、お父さんがせっかく手紙を書いて下さったあのウェーバー先生も亡くなってしまい、教えて頂く夢は消えてしまいましたが、それでもロベルトはピアノに向かい続けます。彼にとってピアノは、そして音楽はいつしか無くてはならないものになっていたのです。

 一方、文学の方でロベルトの心をとらえたのはジャン・パウロという作家です。彼の「生意気盛り」という小説が気に入ったロベルトは、激しい感情があふれ出るようなジャン・パウロに影響された小説を書くようになり、いつかジャン・パウロの小説を音楽にしたいと思うようになりました。 
 自分ひとりの世界に閉じこもる彼の頭の中には、美しい言葉や音楽で飾られたさまざまな夢や幻想の世界が果てしなく広がっていくのでした。

 そんなロベルトにとって一番の楽しみは、音楽好きの商人、カールスさんの家の音楽会に参加することでした。13歳くらいからカールス家に出入りしていたロベルトは、この家に集まってくる音楽に詳しい人たちと音楽の話をしたり、合奏をしたりしているときが何より幸せな時間でした。

 もう一つのひそかな楽しみは、カールスさんの親戚で、お医者さんのカールス博士の奥様・アグネスの歌の伴奏をすることでした。美しくて、歌も得意なカールス夫人は、ロベルトのあこがれの女性だったのです。

ある日、カールス夫人は新しい楽譜をロベルトに差し出しました。

「ロベルト、この曲を伴奏してくださらない?フランツ・シューベルトという人の曲なのだけど、ご存じかしら?」


フランツ・ペーター・シューベルト

「シューベルト・・・? 名前は聞いたことがあるけれど・・・」

 今や「歌曲の王」として知られるシューベルトですが、若くして亡くなってしまったこともあり、この頃まだまだ無名に近い存在です。しかし、実際に曲を演奏してみると、あまりの美しさ素晴らしさに、ロベルトは夢中になってしまいました。

「ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、そしてシューベルト。皆本当に素晴らしい作曲家たちだ。もっと彼らの音楽を知りたいなあ」

 ロベルトの音楽病は重くなる一方です。しかし、ロベルトももうすぐ18歳。将来の事を真剣に考えなくてはいけない時期に来ていました。

「お母さん、ぼくはやっぱり音楽の道を進みたいと思っています。
昔聞いたあのモシュレスのような一流のピアニストになって素晴らしい音楽を次々演奏したいのです。
ギムナジウムを卒業したら本格的に音楽の勉強をさせて下さい。」

 ロベルトは思い切って、そうお母さんに打ち明けました。お母さんは「ロベルトは私の光なのよ」というほど末っ子のロベルトを可愛がっていました。しかし、それだけに生活の不安定な音楽家になることには大反対です。

「音楽家になりたいという気持ちはわかります。けれど、音楽で身を立てるなど簡単にできることではないのは、あなたにもわかるでしょう?
 もうお父様もいらっしゃらないのですよ。
あなたは自分で自分の身を立てて暮らさなければなりません。
音楽は趣味で楽しめば良いのだから、ちゃんと法律を学んで法律家になりなさい。」

 そう言って、ロベルトが音楽の道へ進むことは決して許して下さいません。ロベルトも仕方なくお母さんの言いつけに従い、ライプチヒ大学の法学部に進学することになりました。

 こうして、1878年1月、ギムナジウムの音楽会でカルクブレンナーのピアノ協奏曲を立派に演奏したロベルトは、3月に「きわめて優秀」という成績でギムナジウムを卒業。入学準備のために、すぐライプチヒに向かうことになりました。

 しかし、音楽家になる夢を捨てたロベルトにとって、その旅立ちは決して心はずむものではありません。暗闇に放り出されたような心細い気持ちを胸に、それでもこれから行くライプチヒや未来に希望の光が待っていることを祈りながら、18歳のロベルト・シューマンは故郷・ツヴィッカウを後にしたのでした。


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