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やさしく読める作曲家の物語       シューマンとブラームス 44

第四楽章 ブラームスの物語


  14、様々な別れ
 
 四つの交響曲を完成させ、多くの成功を手にしたブラームスですが、実り多き秋がやがて落ち葉の季節となるように、50歳を過ぎるとブラームスも、多くの別れを経験することになります。

 交響曲第四番を作曲した翌年、重い病気にかかっていた弟のフリッツが亡くなります。同じ音楽家だったフリッツとは、二人の才能があまりに違ったこともあって、仲が良かったわけではありませんが、それでもブラームスは弟の事を何かと助けていました。
 そして、その翌年には恩師のマルクスセン先生が亡くなります。
音楽家としての道筋をつけて下さった先生にブラームスは感謝の気持ちを忘れませんでした。
 
 そんな優しい心の持ち主でもあるのに、相変わらず人付き合いの下手なブラームスは、無神経な言葉や態度で、親しい人たちとすぐに仲たがいをしてしまいます。ちょっとした事で気持ちが行き違ってしまう事は誰にでもある事ですが、ブラームスは自分の考えを曲げないし、誤解されてもそのままにしてしまうので、多くの友人が去ってしまうのです。

「私には友人は居ないんだ。友達だという人がいても信じてはいけない」
そんな事を言って、クララの娘・オイゲニーにたしなめられたこともあったくらいです。
「ヘル・ブラームス、どうしていつもそういう事を言うの?
 お母様や私たちはもちろん、沢山の人があなたのことを大切に思っているというのに」
 ブラームス自身も、自分のやっかいな性格に困っていたようでもあります。
 
 実は、あの素晴らしいヴァイオリン協奏曲が完成した少しあとから、20歳の頃からの親友・ヨアヒムとも仲たがいしたままです。
 もとは、ヨアヒムと妻で歌手のアマーリエの離婚騒動がきっかけでした。

「主人は私が浮気をしていると勝手に思い込んで、私とは離婚だと主張しているのです。でも私には身に覚えのない事で、どうしたら良いのかわかりません」
 アマーリエにそう相談されると、彼女の歌手としての才能を高く評価していたブラームスは、
「それはひどい話だ。大体彼は昔から大変なやきもち焼きなんだ」
と、すっかりアマーリエに同情してしまいます。

 それを知ったヨアヒムは、長年の友情を裏切られたと怒り、今度はアマーリエとブラームスの仲まで疑う始末です。
 こうして、二人の友情には大きなヒビが入ってしまいました。
 
 それから6年。 
会う事も、手紙をやりとりすることも無かった二人ですが、仲直りのきっかけを作ったのはブラームスの方でした。

 フリッツの亡くなった年、スイスのトゥーン湖で二曲目のヴァイオリンソナタ(作品100)とチェロソナタ(作品99)を作曲したブラームスは、この二つの楽器両方を使って協奏曲を作ろうと思いつきます。

 普通、協奏曲はソロの楽器とオーケストラのための曲ですが、ブラームスはヴァイオリンとチェロの両方を「ソロ楽器」にして曲を作ろうというのです。
 これはとても珍しい形式です。
 作曲にあたって、ブラームスは久しぶりヨアヒムに手紙を書き、昔のようにヴァイオリニストの立場でアドバイスをしてほしいと頼みました。

 喧嘩をしたとは言え、ブラームスの才能や活躍ぶりは大いに認めていたヨアヒムもその申し出を快く受け、「チェロとヴァイオリンのための二重協奏曲」(作品102)という協奏曲ができあがりました。
 この曲では、二つの弦楽器はが喧嘩をしたり仲直りをしたりしているようにも聞こえます。

 二人の仲をひそかに心配していたクララは
「これは、二人の仲直りの曲ね」
と、喜びました。
 この曲はブラームスの指揮、ヨアヒムのヴァイオリンで初演されます。
こうして再び共に演奏会や演奏旅行をするようになった二人ですが、一度入ってしまったヒビを消すことは出来ないのか、昔のように親しい仲に戻る事はありませんでした。
 
 同じ音楽家としてブラームスを尊敬し、指揮者として交響曲の成功に力を尽くしてくれたハンス・フォン・ビューローとも、演奏会でどちらがどの曲を指揮するかということで行き違って、一時絶交状態になってしまいます。
 
 けれど、この時も仲直りのきっかけを作ったのはまたもブラームスです。
彼は、モーツァルトのオペラ「魔笛」の一節「愛する者よ、もうお前に会えないのか」という部分の楽譜をビューローに送り、ビューローもブラームスの気持ちを知って二人は仲直りをしました。音楽家ならではの仲直りの仕方ですね。
 
 そして1889年 ブラームスはフランツ・ヨーゼフ・レオポルト勲章を、ハンブルクからは「名誉市民」の称号を頂きました。
 故郷から認められたことはブラームスを喜ばせ、ハンブルクに働きかけてくれたビューローには、直接お礼は言わなかったものの、交響曲第3番の自筆譜をプレゼントして感謝の気持ちを表したということです。
 
 夏にはいつものように避暑地・バート・イシュルに行き、二つ目の弦楽五重奏曲を書きあげたのですが、この頃から彼は作曲に対する情熱が薄れてしまったと感じるようになりました。作曲された曲にも、空しさや深い哀しみが強く表れるようになってきます。

「もうこの世でやるべきことは達成されたのかな。
 もう大きな曲を書くには年を取り過ぎた。
 新しい曲を書くより、以前の曲を手直ししたり身の回りを整理したりしよう」
ブラームスはそう考え、出版社のジムロックさんに遺書を書いて渡しました。

「私の遺産は、ウイーンやハンブルクの貧しい音楽家に使ってもらいたい」
遺書にはそう書かれていました。

 もう、作曲家としては引退しようかと考えていたブラームスですが、ちょうどその頃、マイニゲンの宮廷オーケストラで、リヒャルト・ミュールフェルトという名演奏家のクラリネットを聞いて大変感動します。

ミュールフェルトとブラームス


「何て美しい音色だろう。クラリネットとはこんな素晴らしい楽器だったのか」
ブラームスの作曲家としての「魂」に再び灯がともり、この後「クラリネット三重奏曲」(作品114)「クラリネット五重奏曲」(作品115)そして二曲のクラリネットソナタを次々と作曲してゆくことになります。

 ミュールフェルトのおかげで作曲家としての自信とやる気を取り戻したブラームスですが、この同じ時期、彼の心を痛めつけるような事が起きてしまいます。

 一番大切な人であるはずのクララとの仲がこじれてしまい、絶えず行き交っていた手紙さえも途絶えてしまいまったのです。
 今までも、ブラームスの無神経な態度や言葉が原因で、二人の間がしっくりいかないこともありましたが、それでも深い絆で結ばれていた二人です。
 それが一体どうしたことなのでしょう。
 
 この頃、クララは70歳近くになっていて、フランクフルトで音楽院の教授を続けていました。
 しかし、手の病気・リューマチが悪化してピアノが思うように弾けず、耳も段々遠くなって、音がよく聞こえないというもどかしさとも闘っていました。
 何よりピアニストとして思うような演奏ができないことは、クララにとって大きなストレスです。もう引退しても良い年ではありましたが、病気で働けない長男一家の生活も支えなければなりません。7人居る孫たちの教育や将来も小さくなったクララの肩にかかっていたのです。

 クララが困っている事を知ると、ブラームスはさりげなく援助を申し出ました。今や、ブラームスには使うあてのないお金が沢山あったのです。クララはブラームスの心遣いに恐縮しながらも、心から感謝するのでした。

 ところが、クララに無断でブラームスがシューマンの交響曲第四番の「初稿」を出版しようとしたことで、二人の間に大きな溝が出来てしまったのです。

 「初稿」とは、作者が最初に発表した楽譜で、この交響曲の「初稿」は、シューマンが結婚一周年、クララの22歳のお誕生日にスコアを贈ったものです。
 一度演奏されたものの、余り評判が良くなかったので、その後シューマンが大きく手を入れて10年後に「交響曲第4番」としてようやく発表したのです。
 ブラームスはその「初稿」に、シューマンらしい魅力を感じて、これを出版して多くの人に知って欲しいと思ったのですが、クララにとってはシューマンが納得していなかった「不完全」な楽譜を公開することは許せないことでした。
 よりにもよってブラームスが、しかもクララに黙って出版しようとしたことで、クララの心は大きく傷ついてしまったのです。
 
 誰よりも大切な人を怒らせてしまい、さすがのブラームスもどうしたら良いのかわからず、途方にくれてしまいます。
 
 そんなブラームスをさらに打ちのめすかのように、悲しい知らせが続きます。

 クララと同じようにブラームスにとって音楽の女神であり、いつも良いアドバイスをしてくれた、美しいエリザベート・ヘルツォーゲンベルク夫人と、姉のエリゼが1月と6月に相次いで亡くなってしまったのです。
 二人とも、ブラームスにとっては大切な女性たちでした。そして、姉が亡くなったことでブラームスは血のつながった家族をすべて失うことになったのです。
 
  夏、いつものようにバート・イシュルにでかけたブラームスの心は暗く沈み切っていました。
 自分の心に語りかけるように、久々にピアノ曲に取りくみ、切ないほどに美しい小品を作りました。
「これは私の苦悩の子守唄なんだよ」
と、ブラームスは寂しそうにつぶやきます。
 
 さすがのブラームスもクララまで失ってしまうことは耐えられません。そこで、9月のクララのお誕生日に心をこめて手紙を書きました。
「愛するクララ
 …あなたは私にとって世界で一番愛する人です。

優しいあなたのお心を失って、私は長い間苦しみました・・・
友人に対して不器用な私を、あなたは長いあいだ我慢してくださいましたね。
もう2,3年我慢して頂けたらと思います。

私は孤独には慣れていますが、どうかあなたとご主人が私の人生の最も素晴らしいものであることを繰り返させてください・・・」
 
 切々と訴えるようなブラームスの手紙は、クララの心を打ちました。

「あなた、もうやめましょう。私は平和を愛しています。また昔のように親しく調子を合わせましょう。あなたの美しいピアノ曲に免じて」

 ブラームスが孤独に耐えながら作ったピアノ曲集の事を、クララはもう人から聞いて知っていたのです。
 ここでも音楽が仲直りのきっかけを作ってくれたようです。
ブラームスとクララはお互いが必要であることを改めて感じ、絆を取り戻しました。
 翌年、ブラームスは改めてこのピアノ小曲集(作品118,119)をクララに捧げています。そもそも彼はクララを喜ばせたいと思ってこれらの曲を書いたのです。
「まるで灰色の真珠のよう。
 ブラームスという人を良く知っていなければ弾けない曲だわ」
クララもまたブラームスの心のこもった曲に胸を打たれたのでした。

 lしかし・・・。
二人に残された時間はもう余りありませんでした。
 


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