人が人であること

こんにちは!
ジョイのるーさんです。

相変わらず低空飛行な日々を過ごしていますが、こころは元気です!
#なんの説得力もない


さて、今日は人が人であることについてお話します。

泥臭く、出来ないこと、乗り越えられないことがあっても立ち向かう

それが、人が人であることなんじゃないかな。


たとえば、
小学生のAさんが得意なことは算数を解くこと。だから将来は、理数系の道を歩みたいと漠然と感じます。まわりからもちやほやされ、褒め称えられていました。

やがて中学生になり、Aさんは理数系にすすみ、理系の道を極める選択肢を得られます。
ですが、まわりももちろん、理数系が得意な人ばかりが集まっています。
その中には、理数系の天才Bさんがいます。どんな問題でも簡単に解き、なんなら大学生レベルの問題も解けてしまいます。

すると、うってかわって、Aさんは劣等感がでてきます。血反吐がでるほどめちゃくちゃ努力しても、いつもBさんにかないません。そうなると、この道を進み続けていいのか、という不安がでてきます。
その不安が大きくなると、「わたしは、この選択肢ではなかったのかもしれない」と、自分自身が選んできた選択肢を否定します。

ようは、今の自分を正当化しようとしているんです。

ですが、人であるからこそ、そう思うのは仕方がないこと、むしろ新しい気づきを得るチャンスです。

どんなことも、「気づく変化」がない限り、その道を極めることは難しいです。
本当に得意なこと、なにがあっても好きでいられること、希望を失わないこと。

それぞれの要素が絡み合って、その人の本物の武器として才能が活躍します。

ですが、時には気づくべき「時間」が必要になります。

その気付きがあるからこそ、選ぶ「選択肢」がかわり、自身のすすむ道も変わるからです。

ただ、大前提として「もがく時間」がないと、気づく変化は訪れない。

もがくから見えるものって、あるんですよね。
でも、当事者である自身にとっては、めちゃくちゃキツいことだと思います。

まさに葛藤ですよね。


ですが、それこそ「人が人であること」なんだと思うんです。

泥臭くもがいて、もがいて、絶望して。
でも、そこには必ず新しい「希望」があるんです。


それは、人で生まれた人の特権じゃないのかな。



考えるということを与えられていますからね。




そんなお話でした。

おしまい。


いつもありがとうございます(*^-^*) 次なるコンテンツの本に使います♪