俺と女神と小悪魔と 最終回

 ずいぶんと間が空いてしまって申し訳ない。夏休みのことは、今思い出しても辛いんだ。ちょっと油断すると泣いてしまうくらいには、今でも心の傷になっている。
 最初に言ったはずだ。この恋にハッピーエンドは待っていない。どうあがいても、バッドエンドしかなかった。例えるなら、昔話のかぐや姫って感じだ。
 最初からそれを知っていたのなら、まだ対処のしようもあったかもしれない。心の準備だってできたかも。
 だがこういうケースにおいて、大体に場合前置きはない。幸せの絶頂から「死んだほうがマシだ」と考えてしまうようなどん底にいきなり突き落とされるのだ。そんなのはフィクションの世界だけで十分だと俺は思うのだが、事実は小説より奇なり。こういう話は現実世界に、いくらでも転がっているのだ。
 俺のは少々現実離れしてるが。


1

 世の中の学生の大半は、7月の下旬を心待ちにしている。もしそうでない学生がいたのなら、それはよほどのぼっちか勉強バカのどちらかだ。
 こんなふうに偉そうに語っている俺も、去年まではぼっちを極めていた。しかも単に友人がいないだけなので、勉学に勤しむというわけでもない。ダラダラしていたらいつの間にか外が真っ暗になっていて、「今日も何もしてねーな、俺は」と自分にイラついて舌打ちをするレベルである。
 ただ、それは去年までの話。今年の俺は一味違う。今だって大学受験に向けて自主勉強中だ。理由は単純。人生初の恋人ができたから。

 俺の人生初の恋人は、橋本美月という。出会いは今年の4月。過疎化が進んで今年度いっぱいで廃校になるはずだった俺の高校に、卒業目前の美月が転校してきた。
 美月は俺の自殺願望を消滅させるために、何やら巨大な組織の代表に選ばれたらしい。「友人ができれば、自殺願望も薄まるだろう」という魂胆だったわけだ。
 だが俺たちは、一緒にいくつもの不可解な現象に遭遇した。一番最近だと、俺の書いた小説通りに美月の人格や容姿が変化した。こんなこと普通はあり得ない。それでも起こってしまったことには対処しなければ仕方がない。担任の田口綾子先生や美月と協力しつつ、主に俺が頑張ってたくさんの問題を乗り越えた。
 2人きりの同級生。一緒にピンチを越えた経験。それも一度や二度ではない。これで恋が始まらない男女がいるのなら、俺のところに連れてきてほしい。俺は女の子に手はあげない主義なので、男の方だけ根性を叩き直してやる。

 そんなわけで、恋人がいる長期休暇というものを初めて経験している俺。ただ、ひとつだけ絶対に納得できないことがあった。
「早くおわんねーかな、夏休み」
 今の気持ちを素直に言葉にしてみる。ネコ型ロボットがタイムマシンで9月に連れていってくれることを少し期待したが、当然そうはならない。このままでは勉強のやり損だ。
 話は、1週間ほど前に遡る。美月からある質問をされた。
「龍一、将来のことはどう考えてるの?」
「作家になりたい!」とりあえず思ったままを言ってみる。すると足を踏まれた。顔を見ると、完全に怒っている。
「もっと近い将来の話。大学行くの? 働くの?」
 なんだそっちか。それなら俺の答えは明確に決まっていた。
「俺は、大学なんて行く気はない。アルバイトでもして最低限の金稼ぎながら、小説賞に応募し続けるつもり」
 大学に行くことを考えなかったわけではない。しかし俺にはどうしても、「大学に行かねばならない理由」が見つけられなかった。義務教育ではないし、高校のように「卒業してない人間なんているの?」と陰口を叩かれるような場所でもない。
「勉強は高校で終わり。卒業したら執筆第一優先の生活をしようと思ってる」
 高校生の割には結構しっかりした将来設計だと自分では思っていた。どう? という意味を込めて美月を見る。お褒めの言葉を期待したが、彼女の表情はどこか冴えない。
「実は私、大学行くかどうか迷ってるの」
 迷っている、という割に答えは決まっているような口ぶりだった。聞かせろ、という意思を込めて視線だけを送る。
「この仕事、成功したでしょ? 龍一の自殺願望を消滅させるっていう仕事。あれ、実はいろんな親御さんから依頼があって、龍一が卒業したら別の学校に行けって指令が来てるんだって」
 それだと美月は永遠の18歳という昭和のアイドルのような設定になってしまう。俺の困惑に気付いたのか、彼女は薄く笑った。
「SSチームが作った空間の中では、年を取らないらしくて。もちろん実際の体は年を取るけど、この空間にいる限り私にその加齢は反映されないんだって」
「浦島太郎みたいな理論なわけだ」俺は素直に感想を言った。すると美月は驚いたように目を大きくした。
「すんなり受け入れるんだね」
「自分が置かれている状況は理解してる。俺の状況でさえ異常だろ。でも実際に起こってる。なのに、恋人である美月の話を信じない理由はない。それに、もし全部嘘でも俺は構わないし」
「そう。話が早くて助かるけど」美月はまだ納得し切っていない様子だ。
「で? 美月の意思はどうなのよ?」勝負に出た。
「え?」
「あなたは大学に行きたいの? それとも、行きたくない?」
 美月が一瞬だけ、すごく困った顔をした。それでもすぐいつもの笑顔に戻る。「私は、龍一みたいな人をたくさん助けるのが仕事だから……」
「そういう『組織の人間』としての言葉が聞きたいんじゃないっての」
 美月は分かっているだろう。口に出すのが怖いだけだ。だから俺がアシストする。嫌われる覚悟で。
「確かに仕事は大事だろうけど、俺は美月の意思が知りたいんだ。俺はあなたに救ってもらった。今度はあなたを救いたいと思うのは、悪いことか?」
「……龍一は」少し、声が震えている。
「龍一は、何も分かってない!」
 予想通りの返事だった。だから俺も本心を伝えられた。
「俺は、俺の人生から美月がいなくなったら、死ぬよ。生きてる意味、ないもん」
 美月の足が止まる。肩が震えている。一瞬、自分の発言を後悔しそうになった。しかし、ここまできたならすべて言ってしまう方がいい。
「俺は、美月に救ってもらったんだ。だから、もう美月なしじゃいられなくなった。それは美月も同じじゃないの? 少なくとも俺は、告白受けてくれた時点でそう思ってたよ」
「そんなの」美月は振り返らない。だが泣いているのは分かった。「当たり前じゃん」
「だったら」と俺が言いかけたところで、彼女は声を上げて泣き出した。
「私だって、龍一とずっと一緒にいたい! チームのミッションとか、もう関係ない。私は純粋に龍一が、好きなの!」
 聞きたいことは、これで全部聞けた。俺はもう満足だった。
「……俺、やっぱ大学行くことにした」
「え?」
「小説書くのにだって、教養はあった方がいいだろ。創作に、無駄な知識はないっていうし」
「でも、私は」
「水臭いっての」気づくと頬が緩んでいた。
「俺は美月なしじゃ生きていけない。あなたがいなくなったら俺は死ぬって言ったろ? 俺の自殺の意思が消えなければ、美月の俺に対するミッションも終わらないんじゃないの?」
 直後、ガラガラと音がした。視線を向けると、見覚えのある仮面。間違いなくリーダーだった。
「ご名答だよ龍一くん。君が今後も彼女との生活を望むのなら、それが最善の方法だ」表情は見えないが、とても満足そうに何度も頷いている。
「あんた、どこから聞いてた?」一応確認してみる。
「『生きてる意味、ないもん』の辺りから」
 ほぼ全部だった。しかしリーダーにとってこの程度のことはおそらく想定の範囲内。これ以上ウブな高校生感を出したくなかったので、話を先に進める。
「自分で言っておいてあれなんだけど、次のクライアントとか大丈夫なのか?」
「そうですよリーダー! 君の仕事はたくさんあるって、前にも言ってましたよね?」
「まあ、そこはグレーゾーンってところかな」リーダーはまだ上機嫌だった。
「高校を卒業しても、龍一くんが自殺の意思を示し続けるなら、SSチームとしても彼に対するミッションがコンプリートされたとは言えないからね。その場合はミッション続行ということになる。本来ならこの場合は美月に引き続き担当させるわけにはいかないが、被験者がそれを望むならやむなしだろう。依頼者にはそう言って納得させる」
 どうやらSSチームは相当な信頼を受けているようだ。めちゃくちゃなことを言っているが、リーダーの口調には絶対の自信があった。
 美月もそれは感じ取ったようで、「分かりました。龍一がそう言ってくれるのなら、私は大学に行きます。自分だって、行きたいと思ってたから」と微笑んだ。それを聞き届けたリーダーは満足そうに頷いた。
「じゃあ、あとは若い2人で話したらいい」そう言って彼は去っていった。
「……さて、龍一くん」美月が急に改まった態度を取る。自然と背筋が伸びた。
「私が狙う大学は、並の成績じゃ行けないの。今の龍一レベルの学力じゃ模試を受けてもD判定すら怪しいかもね。だから、死ぬ気で勉強してね?」
 しまったと思った。俺は美月ほど勉強が得意ではない。彼女なら東大レベルを志望していてもおかしくないのに、俺は「一緒に大学に行く」と宣言してしまっている。もう後には引けない。
「安心して。私が行きたいのは、法学部のある大学ってだけ。もちろんレベルの低すぎるところじゃ嫌だけど、別に最高レベルは求めてないから」
 最高レベルだったら、流石の俺でもとうに諦めている。しかしそれでも、俺のために美月が自分の夢を妥協する姿は想像したくなかった。だから、ちょっとだけ見返りを求めてみた。
「俺が無事大学に合格したら、ご褒美にひとつだけおねだりしてもいいか?」
「おねだり」という言葉に美月が身構える。
「キス以上のことはまだしてあげないからね?」
「あなたさ、それ言うなよ! 俺が避けてたことをストレートに……。でもそういう意味じゃ、キス以下とも言えるかもな」
「じゃあ、ひとつだけならいいよ? おねだり聞いてあげる」
「約束な?」
「うん。約束」
 こうして、自主勉強地獄の夏休みが幕を開けたのだ。

2

 俺は自分にノルマを課した。まずは法学部の受験科目を調べ、その教科の成績と照らし合わせる。最悪なことに全教科だった。そのうち合格圏内に達しているのが文系の2教科のみ。非常にまずい。
 いよいよ後がないと感じた俺は、美月に連絡を返すことまで忘れて勉強に没頭した。
 人間とは不思議な生き物だ。普段はあんなに嫌いですぐ眠気と格闘していたはずなのに、切羽詰まるとそんな気持ちはやってこなくなる。「恋は盲目」とはよく言ったものだ。先人は偉大なり。

 そんなふうに毎日を勉強漬けで過ごしていたら、夏休みもあっという間に残り2週間になった。お盆休みも終わっている。俺としても、ここまで勉強に命をかけたのは人生で初めてだった。
 いくら疲労よりも切迫感の方が勝っているとはいえ、流石にどこかでエネルギーを補給しないとヤバいと思った。勉強漬け生活のお陰で田口先生から出された「夏休みの課題集」はすべて終わっていた。
「受験生とはいえ最後の夏休みでもあるわけだし、1日くらい遊んだっていいよな!」
 夏休みに遊ぶ。学生だけに許された特権だ。当たり前のことに今さら気づいた俺。そこで数週間ぶりにメッセージアプリを開いてみる。
 今日は朝から予定もないし、近くで花火大会やってるってネットで見たぞ。今、チャンスじゃね? ちょっと緊張するけど、美月をお祭りデートに誘うぞ! なんて柄にもなく決意していた。
 愕然とした。
 美月からのメッセージの数が100通に迫っていた。最初の方こそ応援や体調を気遣う内容が多かったが、8月に入ったあたりでとうとう堪忍袋の尾が切れたらしい。
『いい加減に連絡、返してくれば?』
『私のことなんかどうでもよくなったんでしょ?』
 しまいには、『もう分かった! そっちがその気ならもういい! 終わりにしよう』だ。しかもメッセージはそれが最後。
 急いで『ごめん! 勉強に集中しすぎてずっとスマホ電源切ってたから分かんなくて』と返信したが、何分経っても既読すらつかない。
「これは、ブロックされたってことか……?」
 誰にともなく呟いてしまうほど、呆然としていた。

 どれくらいの時間フリーズしていたかは分からない。俺が意識を取り戻した時はもう11時を過ぎていた。「今日は遊びまくるぞ!」と浮き足立っていたのは8時半くらいだったから、3時間近く経っている。人間はショッキングな出来事が起こるとそれに耐えきれず気絶するという話を聞いたことがあったが、あれは本当らしい。
 一応改めてスマホを確認してみる。新着メッセージの通知はゼロ。さっき送ったやつも既読になっていないままだった。
 ただ、ひとつだけ変化があった。留守電のメッセージが入っていたのだ。知らない番号からだった。しかしタイミング的に、美月かもしれない。心の準備をして、再生ボタンを押す。
『龍一くん、元気にやってるかい?』
 聞き慣れた口調のボイスチェンジャー野郎こと、リーダーだった。この状況では彼の声はこの上なくムカつく。その場で消去してやろうかとも思ったが、『美月のことで話がある』と言うのが辛うじて聞こえた。慌ててスピーカーにする。
『今から学校に来てほしい。詳しくは直接話すが、美月が消えた。そしてこの件に私は一切関与していない』
 いつになく余裕のない感じだった。いつも「世界は私の意思のままに回る」と言わんばかりの尊大な態度のリーダーからは想像もできない。
 胸騒ぎを抱えながら、俺は学校へと全力疾走した。

3

 校門の前には既にリーダーが待っていた。遠くから見ていても分かるくらいに挙動不審で、ますますいつものリーダーじゃなかった。俺の姿を見つけると、彼の方から駆け寄ってきた。
「龍一くん! 自分の恋人のことだというのに、君は何時間放置しておくんだ! 見損なったぞ!」
 いきなり怒鳴られた。しかし美月を放置していたのは確かに俺なので、何も言わずに頭を下げておく。
 リーダーはかなり取り乱していたが、教室に向かうまでの道で次第に普段の落ち着きが戻ってきた。俺も気持ちを無理矢理落ち着けて、これまでのことをかいつまんで伝えた。
「それで、美月が消えたってのは本当なのか?」
「ああ。連絡がつかない。知っての通り我々はただの学生と教員の関係ではない。あえて言うなら、社長と社員といった感じかな」
 口調がいつものリーダーに戻っていた。のっぴきならない状況でも、彼の声を聞くと俺も冷静になっていくから不思議だ。
「君も聞いたことくらいあるだろう? 社会人に重要なのはホウレンソウ、報告、連絡、相談だ。特に我々の業種は、それが不可欠だ」
 だから夏休みであろうとも、今まで定期連絡は欠かさなかったのだという。ところがお盆休みくらいから美月の連絡が途絶えたらしい。
「私が家へ出向いて安否を確認するという手段もあったが、私は組織外の人間に正体を明かすわけにはいかないんだ」
「それで? 田口先生に確認を頼んだってところか」
 リーダーは深く頷いた。
「幸い今は夏休みだ。家庭訪問が行われても違和感はないからね。だが……」
 娘が帰らない、と聞かされたのだそうだ。一枚のメモを残して外出したきり戻っていないらしい。
「参考になればということで、田口先生が写真を撮ってきてくれた。現物を預かるのは、いささか気が引けたらしい」
「そんなの、読めれば十分だろ。見せてくれ」
「本来こういったケースでは生徒を巻き込むわけにはいかないんだが……」
「それなら、どうして俺を呼びつけたんだ? 今さらルールなんてどうでもいいだろ。大事なのは美月を見つけることだ」
 落ち着いているとはいえ、不安な気持ちに変わりはない。俺は少し苛立っていた。そんな俺を見て、リーダーもやっと決心したようだ。
「本当に君は、美月のこととなると決断が早い。こうなれば私も、君のその決意を信用しよう」そういって写真を見せてくれた。
 そのメモにはとても綺麗な字で、こう書かれていた。

『私が彼を追い詰めた。自分だって辛くなるって分かってたのに。こんな私が、誰かを好きになる資格なんてない。だから彼の前から消えます。ごめんなさい。探さないでください。美月』

 読み終えた瞬間に、感情がこみ上げる。今まで女性に対して汚い言葉を使わないように意識してきたが、そんな理性は一瞬で飛んでいった。
「……あのバカ。俺の気も知らないで」
 涙はどうにか堪えた。男としてのプライドだ。それに、俺には泣いている暇はない。
「ここに書いてある『彼』というのは君のことだろ? 美月は君に余計なプレッシャーを与えたんじゃないかと悩んでいた。あの時の会話は私も聞いていたから、頑張っている彼氏を応援してやれと言ったんだが……」
 どうやらリーダーからこれ以上の情報は得られそうにない。「田口先生は今、どうしてますか?」と話題を変える。無意識のうちに敬語になっている時点で、俺も相当パニクってるらしい。
「貧血を起こして倒れた。今は保健室で休んでもらっている。自分の責任だとうわごとのように繰り返していたから、彼女も相当追い詰められている」
 捜索に協力してもらうのは無理そうだ。メモの写真を撮って来てくれただけでも、彼女には感謝しなければならない。
「先生に伝言いいですか? 今回のことは全部俺のせいで、あなたは悪くないって」
 リーダーがまっすぐに俺を見てきた。
「居場所に心当たりがあるのか」
 力強く頷いておく。実際は心当たりというより、可能性があるくらいの話だったが、手がかり皆無よりははるかに明るいニュースだ。それに俺には、この問題は2人だけで向き合った方がいいという確信があった。
 根拠はない。直感というやつだ。その直感は「急げ」と告げている。
 普段なら直感なんて信じない。だが、だからこそこの直感を無視してはならない気がした。

4

 直感に従って、来た道を戻る。運動嫌いの俺が、1時間とおかずに全力ダッシュ2本。太ももを筆頭に全身の筋肉が痛みという形で限界を訴えてきた。なぜだか分からないが、頭痛までする始末だ。
「日常生活には、適度な運動を取り入れましょう。もっと真面目に体育やっときゃよかったよ」
 息を整える意味もあって、思ったことをそのまま口に出してみる。すると次第に頭痛は治ってきた。全力ダッシュで酸欠になっていただけらしい。
 目的の建物はもう目の前。生まれてから今まで一番目にしているはずなのに、随分と懐かしさを感じる外観。
 俺の家だ。
 外観に懐かしさを感じるのは3ヵ月ほど玄関から家に入った記憶がないからだった。家にはきちんと帰っているが、学校を出た瞬間に意識が途切れる。だから外から自宅を見たのは春休み以来だった。
 自宅ではあるが一応インターホンを鳴らしてみる。この時間なら母はパートに行っているはずだ。
 それなのに、人の気配があった。ドアをガチャガチャやってみるが、鍵はしっかりかかっている。どんなに焦っていたとしても、俺は鍵をかけずに外出するほどバカじゃない。
 確定だ。
「俺だってスペアキーくらい用意してんだよ。入るぞ?」
 相変わらず動いている気配はあるが、返事はない。スペアキーを差し込むとドアはすんなり開いた。どうやら俺の侵入を拒む気はないらしい。
 こうなると、多少強気に出られるようにになる。何せここは自宅。どんなに荒らし回っても怒るのは母だけだ。その母には後でしっかり事情を話せば許してもらえるだろう。
 そうして探し回ること数分。美月は寝室の押し入れで、布団にくるまっていた。ちなみに現在の気温は34度。後数時間もすれば猛暑日確定だろう。だから最初に出た言葉は「熱中症になるぞ?」だった。
「今潜ったばっかりだもん」
 顔は見えない。だが声で分かる。確実に拗ねている。「最高に可愛いな」という台詞は流石にこの場では不適切すぎると思い、後ろを向いてから小声で呟いた。
「バッチリ聞こえてますけど?」
 今度ははっきり聞こえた。彼女が押し入れの中で立ち上がったから。
 その言葉は聞こえなかったふりをして、「話、聞かせろよ」とだけ言った。美月も浅く頷いただけだった。
 今日のデートは長くなりそうだと思った。

5

 不法侵入のことについては、深くは追及しないことにした。自宅デートができることを期待して合鍵を渡したのは俺だ。そしておそらく、現在のこの状況の原因を作ったのも俺。だったらおあいこというものだろう。
「で? どうして俺の家に隠れたんだ?」
 客にはお茶でも出すのが道理というものだが、それよりも先に一番の疑問を解消したかった。
「受験が終わったら、家デートしようって約束したじゃん。合鍵だって美月がお守りって言うから渡したんだぜ?」
 少々語気が荒くなってしまった自覚があった。美月は怯えた目でこちらを見ている。
「心配かけて、ごめんなさい」
「……ああ、俺も悪かったよ、責めるような言い方して。俺が美月をほったらかしにしたのが原因だろ?」
「そんなんじゃない。全部私が悪いの。龍一は何も」
「ストップ。ここは静かすぎる。外に出よう。拒否権はない」
 本当ならもう少し自宅デート気分でいたかったのだが、今はとにかく動くべきだと思った。じっとしているより歩きながらの方が話しやすい場合もある。
 美月は最初、「リーダーに報告しないの?」と小さな声で訊いてきた。普段の彼女からは想像もできない、ひどく怯えた声だった。
「俺を組織の回し者だと思ってる? 俺はただ、美月が心配で探し回ってただけ。それ以外の理由はない。一応、リーダーから『美月を見つけてくれ』とは言われたけど、現状を報告するかは美月の話を聞いてから決めるわ」
「それって、どういうこと?」
「一緒に逃げてくれって言うなら、美月とならどこへでも行くぜってこと」
 緊張感マックスだった美月の表情が一瞬和らいだ。何気なく左を見ると、いいところにカラオケがある。行き当たりばったりで外に出たはいいが、そろそろ暑すぎて溶けそうだった俺にはまさにオアシスだった。美月も同じ気持ちだったようで、とりあえず2時間の予定で入室する。

 時計を見るともうすぐ13時。時間を意識した瞬間に腹が減ってきた。
「美月、なんか食うか?」
「……イカリング」
「好きだよなそれ。俺はポテトでもつまもうかな」
 メニューをパラパラめくっていると、「イカリングツリー」なるものが存在した。美月も見つけたらしく、目がハートになっている。即行で注文した。
「美月、ごめんな。俺、あなたのこと大切にするって約束したのに」
 自分から切り出すのは少し怖かった。けれど彼氏としての責任を痛感しているのも事実。だから最初に謝った。美月は否定するだろうけど。
「龍一は何も悪くないじゃん! だって龍一、勉強頑張ってただけでしょ? それに、そこまで頑張らせちゃったの私でしょ? 私が大学行きたいなんて言ったから」
「考えすぎだって言ってんのに。あ、それとも勘違いしてるか? 俺、法学部に行こうとは思ってないぞ?」
 一瞬、温度の低い風が吹いた気がした。それとほぼ同時に、店員のお姉さんがポテトとイカリングツリーを運んでくる。「失礼します。こちら……」まで言ったところで店員さんは笑顔のまま凍りついた。
 美月が涙を流していたからだ。
 すぐに声のトーンを落とし、「フライドポテトとイカリングツリーになります」と早口で言って去っていく。どうにか乗り切ったと思ったが、最後の最後でガン睨みされた。どうやらクズ男のレッテルを貼られたらしい。訂正したかったが、今さら何を言っても無駄だろう。諦めて話を戻す。
「何でここで泣くんだよ。さてはあの時、俺の話聞いてなかったな?」
「私と同じ大学を受験するって言ってた」
「それはそうだけど、俺は法学部を受験する気はないって言ってんだよ。文学部にしようと思ってる」
 遡ること数週間前。一応法学部の受験科目と合格ラインを調べたが、いくら頑張って勉強したとて不可能なレベルだった。そこで志望を文学部に変更してみたところ、現時点での判定はBだった。いわゆる合格確実はA。これならどうにかなりそうだった。
 つまり俺は、最初から無謀な挑戦はしていない。手を伸ばせば届きそうなゴールに、必死で手を伸ばしていただけだ。
「EからAよりは楽だけど、BからAだって油断してたら危ないだろ。美月にも『頑張れ』って言ってもらったし、柄にもなく頑張っちゃっただけなんだ。多少疲れてるのは否定しないけど、美月のせいじゃないよ」
「それならそうと早く言いなさいよ、バカ!」
「だから素直に謝ってんじゃん。悪いと思ったから」
 一気に場の空気が軽くなった。俺としてはミッションクリアだ。だが俺だけが安心しているわけにもいかない。
「一応さ、リーダーに電話入れてもいいか? 大丈夫。無事を伝えるだけだから」
 美月は少しだけ、迷うそぶりを見せた。
「今すぐ学校に戻りたいなら、それでもいいぜ? 俺も一緒に謝ってやるよ。リーダーだって田口先生だって分かってくれるって。それに俺たちは、思春期なんだからさ」
 小っ恥ずかしくて普段なら絶対に言えない台詞だ。美月の笑顔が見たいからすんなり出た言葉。けれどもそれは、俺の偽らざる本音でもあった。

 あらゆる過ちが「思春期」という言葉で許されるわけじゃない。しかし「思春期」だから許される過ちも確実にある。人間は、人生の中でいくつか過ちを経験するべきだ。そうやってだんだん大人になっていく。
 あの頃の俺はそんなこと、つゆほども考えていなかった。純粋に美月を救いたかっただけだ。俺も美月に救ってもらったから。
 だがそれは見方を変えれば、独りよがりの自己満足に過ぎないのかもしれない。恩返しができたと思いたいだけかも。そんな不安が、あの夏はずっと胸にあった。
 あそこで、彼女の笑顔を見るまでは。

「もしもし、リーダー? 美月、見つけたよ」
「そうか! どんな様子だ? 落ち込んだりしてないか?」
「俺と話したらスッキリしたみたい。この後久しぶりにデートしてから戻るわ。もちろん、2人で戻る」
 リーダーは泣いていた。受話器越しにもそれがわかるほど号泣していた。ちなみにリーダーは、この電話がスピーカーになっていることは知る由もない。
 本当なら美月にも話してもらおうと思っていたが、彼女も大号泣だったのでそれは諦めた。とりあえず「じゃあ、今からデートだから邪魔すんな」とだけ言っておく。
「そんな大泣きして、歌えんのかよ?」
「私を誰だと思ってる? ネットの歌い手に憧れて、その人の歌唱法を猛特訓した、あの橋本美月ちゃんだよ?」
「いや、どの美月ちゃんだよ、そんなエピソード初めて聞いたし」
「ミラクル美月ちゃんには、多少の涙なんて関係ないのだ!」
「はいはい。じゃあ先に歌えばいいじゃん」
「とりあえず龍一からどうぞ!」
「あなたさ、会話の流れって言葉知ってる?」
 カラオケデートは終始こんな感じだった。歌って、歌って、ちょっと喋って、また歌って。気づいたら5時間が経っていた。
 約束した手前学校に戻らないわけにもいかず、疲れ切った状態で半ば倒れるようにしてリーダーの待つ教室に入る。
「「ごめんなさい」」
 その後1時間くらいリーダーの説教が続いた。後半戦は復活した田口先生まで参戦してきて、俺たちはまた説教を食らった。
 次の日は朝から晩まで眠ってしまった。少しだけ罪悪感があったが、美月もそうだったと知ってその罪悪感は消えた。

 それから半年後、俺は晴れて大学生になった。狙っていた大学の文学部だ。しかし、あいつはそこにはいなかった。

6

 晴れて大学生になった! とはいうものの、俺の気分は全く晴れやかではなかった。最初は学部が違うから会えないだけかと思ったが、LINEを送っても既読すらつかず、電話をしても繋がらない。
 まるで橋本美月という人間の存在自体が抹消されたかのようだった。
 けれども、そうでないことは入学から1か月で判明した。リーダーからの音声メッセージによって。

『龍一くん、本当に申し訳ない。だがこれは美月の意志なんだ。美月は、君の大学よりはるかに偏差値の高いところに無事合格したよ。最初から狙いはそこだったらしい。
 彼女は進学を機に、SSチームの仕事からも去った。今は本当にただの一般人だ。もう君と会うこともないだろうと言っていた。
 ……呆然としているだろうな。だが君にひとつ、美月から伝言を預かっている。
 10年後、龍一が今よりずっと笑えていたら、また会えるかもね、だそうだ。
 この言葉の意味は、君にしか分からないだろうとも言っていたな。ちなみに私にも、さっぱり分からない。
 SSチームと君の関係が途切れた以上、私も君と関わるのはこれが最後だ。だから、私もメッセージを送る。
 龍一くん、美月のことをよろしくお願いします。絶対に忘れないでやってくれ』

 周りに同級生やら先輩やらがいっぱいいた。けれどそんなことを気にしている余裕はない。もう涙を止める術はなかった。止めようともしなかった。あてもなく走り出すしかなかった。今日は単位なんていらない。
 そこから三日三晩泣き続けた。人間は三日三晩泣くと疲れて24時間近く眠るというのは、経験者の俺だけが知っていることだ。

エピローグ

 そんな経緯があって大学に入ってからもう10年が経った。あの日から一度だって美月のことを忘れたことはない。ただ、もう二度と会えないだろうと諦めてはいた。
 リーダーの連絡先も、あの日を最後に使用されなくなった。結局あの人が何者なのかは分からずじまいだった。
 あの日彼女に言われた「10年前より笑えているか?」というのも、胸を張ってイエスとは答えられない質問だった。
「俺の小悪魔、どこにいんのかなぁ」
 週末はそんなことを考えながら、目的もなく外を歩いてみる。今日ももう2時間くらい歩っている。少し疲れたので公園のベンチに座った。
「美月かぁ。懐かしいな」
 思わず心の声が漏れた時だった。
「人のこと勝手に思い出にしてんじゃないわよ、バカ」
 聞き覚えはあるけれど、信じられない人物の声だった。まさかな、と思いながら振り向いてみる。
 青春時代に見慣れた、俺の人生唯一の恋人がそこにいた。
 美月もしっかり10年分歳を重ねていた。だが決して老けたということはなく、むしろ高校生の頃より色っぽくなっていた。女性に対する苦手意識があの頃のままの俺は、長時間直視出来なかった。
 そんな俺を見て、安心したように美月が走ってくる。俺は受け止める準備をしたが、抱きしめられる寸前で彼女は止まった。そして軽く俺の頬を叩く。
「やっぱ私相手でも直視出来ないんだ。せっかく気合い入れてメイクしてきたのに、これじゃ意味ないじゃん」
 そんなことを言われては、直視しないわけにもいかない。ドキドキしながら顔を上げると、美月は悪戯っぽく笑ってこう言った。
「大学卒業おめでとう。ってもう10年経ってるけど。おねだり、聞いてあげにきた」
 舞い上がっているはずなのに、俺の思考は冷静だった。
「じゃあ、待たせた罰としておねだり2つな?」
 返事を聞かずに続ける。
「ひとつ。俺ともう一度付き合ってください」
 美月はゆっくり頷いた。そのあとで「じゃあ、彼氏としての最初のおねだりは?」
 10年越しのおねだりにしてはおそらく軽すぎる。でも俺にとっては、人生最大の勇気が必要だった。
「ほっぺ、ぷにぷにさせてほしい」
 美月は一瞬戸惑った顔をした。だがすぐに「いいよ」とほっぺを目の前に出してくれる。
 俺はずっと、美月の温もりを確かめていた。途中「いつまでやってんのよ!」と真っ赤な顔で怒られたので、「じゃあ美月もどうぞ」と冗談半分で俺のほっぺを差し出してみる。美月の柔らかい指が俺のほっぺに触れた。自分は1分くらいでやめさせたくせに、俺は5分くらいぷにぷにされ続けていた。
 こうして、俺の初恋は10年ぶりに再始動した。
 読者諸君、今まで付き合ってくれてありがとう。俺たちはこれから、幸せになります!

END

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