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(音楽話)72: 三波春夫 “元禄名槍譜 俵星玄蕃”

【つまみ食い】

三波春夫 “元禄名槍譜 俵星玄蕃” (????)

…全くの季節外れな選曲ですみません。

昭和の日本が生んだ史上最高峰のヴォーカリスト、三波春夫。大正12年(1923)新潟県に生まれ、昭和11年(1936)に家族と上京。当時の流行歌手=浪曲歌手に憧れ、昭和14年(1939)に日本浪曲学校に入学。浪曲家「南條文若/なんじょう ふみわか」として有名になるも、昭和19年(1944)に徴兵召集で満州に入営。ソ連と戦闘の末捕虜となり4年間シベリア抑留、昭和24年(1949)に帰国。浪曲師として再び活動するも既に浪曲人気は陰りがあり、世の中は演歌・大衆歌謡。そこで「三波春夫」と改名し歌謡曲を歌い始めます。そこで歌われた数々のヒット曲ー”チャンチキおけさ””大利根無情””東京五輪音頭””世界の国からこんにちは””雪の渡り鳥””船方さんよ””ルパン音頭”など、実に幅広い守備範囲。「お客様は神様です」の名言を生んだほど真摯なエンタテインメントへの姿勢は生涯変わらなかったといいます。平成13年(2001)4月、前立腺癌により77歳で逝去。

元禄名槍譜 俵星玄蕃”は三波の代表曲のひとつで、彼の出自である浪曲と歌謡曲を融合させた「長編歌謡浪曲」の最高傑作。作詞は三波自身、作曲は”大利根無情”などを書いた長津義司。「忠臣蔵」を題材に、架空の人物「俵星玄蕃」が主人公の物語で、歌唱部分とセリフ部分が入り組んだ壮大な楽曲です。「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立ち上がり…」という名調子がカッコよく、私のお気に入りでもあります。
この映像の詳細は不明ですが、前奏前セリフ込みの完全版です(尺が長いので当時、歌番組ではかなり省略されることが多かったのでこれは貴重)。

槍の名手・俵星玄蕃。高家旗本の吉良家から付き人の話があるも、赤穂藩主切腹の事件への不信から、これを断っていました。そして、吉良邸近くで細々と蕎麦屋を営むとある男を赤穂浪士と見抜きつつ、名を聞くような野暮はせず、何かの役に立てばと、自身の槍の技術を彼に伝えます。
そしてある夜、山鹿流陣太鼓の音を聞き、ついに赤穂浪士が君主の敵討ちを行うと確信、吉良邸に駆けつけ蕎麦屋を探しつつ、赤穂藩家老・大石内蔵助に助太刀を申し出ます。大石は感謝するもそれを断ると、そこに蕎麦屋が現れます。「先生!」「おお、蕎麦屋か!」という有名なセリフがありますが、この蕎麦屋は杉野十兵次という赤穂浪士でした。そして悲願の仇討ちは成就されますが、赤穂浪士たちは死刑。まさに「命惜しむな 名おこそ惜しめ」となった彼らに俵星は最後ひと知れず涙するーーーというお話です。

壮大な和風オペラ、プログレと言ってもいいかもしれない。歌詞を覚えるだけでも難儀ですが、曲調も節回しもリズムも違う様々なシーンを乗りこなし、圧倒的な説得力を見せつける三波の歌。声の張り方、節回し、押し引き、どれをとってもものすごい技術力と経験の為せる技。歌心なんて言葉すら陳腐に聞こえてしまうほどの歌世界が聴く者を圧倒します。これぞエンタテインメント。身震いします。

その昔、細分化された音楽ジャンルによる棲み分けが今ほど厳格でなく、老若男女がほぼ同じ音楽コンテンツを「歌謡曲」として聴いていた時代。「歌謡曲」という大括りの中には、ポップスもムード歌謡も演歌も民謡もジャズも、なんでもありました。だから皆、ポップスと同時に演歌も知っていた。ダイバーシティという言葉が謳われるずっと前から、私たちはその多様な音楽たちを受け入れていたはずです。

この「認知」こそが、今我々が生きる上で極めて大事なのではないでしょうか

現代は、その認知が決定的に欠落している気がしてならない。あらゆる事象が細分化され、己が好きなこと、気になることのみに接し、それ以外は関心の選択肢から外される。自分の心地良さのみが指標であって、その他のことには無関心でいられる。自分が執着すること以外の物事に対して「認知」すらしない。なんて殺伐で、つまらなく、矮小な世界なんだろう。

このような名曲、名唱を、自分の好みと違うから聴かない/知らないという方、こんな世界もあるんだと、まずは少なくとも「認知」してみませんか?言い換えれば「つまみ食い」。こんな幸せなつまみ食いなら、いくらでもイケそうじゃないですか?笑

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