怯えと宗教

一つの絶対に揺るがない、それさえ信じていれば何があっても大丈夫、という思想(軸)があれば、生きていくことが楽だろうなと思うことが時々あります。
ただ、その軸に縛られる事で、その軸から外れてしまう事の恐怖を常に抱えて生きていく辛さもまた計り知れないなと思うこともあります。

自分は、街中で3〜4人の男子高校生達のグループとすれ違う時などにそれらの考えが浮かぶことがあります。もっと言えば、男子高校生達のグループのみでなく、ただ人とすれ違う時もたまにそれらの考えが浮かびます。

男子高校生達は、お互いに喋りながら、そのグループの中に存在する見えない軸(その軸から外れてしまったら自分がグループ内の他の彼らから除外されてしまうと感じてしまう軸)から外れないように、怯えながらもその怯えを悟られないようにしながら、慎重に互いを伺いながら話していたりするように感じます。
もちろんこの世の男子高校生達全員がそうだとは全く思いませんし、その怯えの大きさには個人差があると思います。

そのような男子高校生達とすれ違う時に、もう一つ頭に浮かぶ事があり、それは、「彼らからは怯えが見えやすいだけで、同じ現象は、どんなグループにも、どんな組織にも、なんなら国にも、基本的に存在している」ということです。
もちろんグループや組織、または国によって、個人個人が感じる怯えの大きさは全く異なると思います。ですが、「怯えが小さければ小さいほどグループの中の人間達は幸せである」というほどシンプルなものでもないようにも感じます。何故なら、残念ながら人間は「排他的になる時に喜びを感じる性質」を持っていると思うからです。

(自分のアイデンティティが確立されないという)怯えから生まれたもの(グループや組織の軸)が、(そこから排除されるということに対する)別の怯えを生み出しているとも言えるかもしれません。実際にはそれらの怯えは同じものであるとも思います。

宗教とは、最初に書いた「一つの絶対に揺るがない、それさえ信じていれば何があっても大丈夫、という思想(軸)」そのものだと思います。
ただ、歴史が既に証明してしまっているように、そのような軸を無理やり作り出す事で、精神的に救われる人の数はもちろん数えきれないですが、それと同時に、その軸によって亡くなった命の数、また、その軸を誰かに利用される事で流れた血の量も計り知れません。

一般的な「宗教」を信じていなくても、この世に生きる人々は殆どの人間が無意識に(または意識的に)「宗教(軸)」を持っていると感じます。そして軸というものは、他に対し排他的になることをもの凄く手助けしてくれます。その瞬間の気持ちよさはあるものの、争いが生まれ、傷つく人間、場合によっては命を落とす人間が出てきます。

とはいえ、何の軸も信じる事なく生きていけるほど人間は強靭ではないと思います。

どうすれば良いんですかね…?

今の時点での自分が思うことは、まず、「人間ほとんど誰しもが無意識又は意識的に(自分のアイデンティティを確立する為に)自分の軸やグループの軸を作り、排他的になることで自分又は自分達を肯定しようとしている事実がある」
という目を逸らしたい部分を、まずは直視出来る余裕のある人達が直視すること(それを直視することで生きていけなくなってしまう人も沢山いると感じています)が大事だと思います。
そして、この認識を広めていくことが、まず最初にすべき事なのかなと感じています。

全然音楽と関係ない話をしてしまいました笑
(ただ、"バンド"も基本的に似たようなものだと感じたりする時もあります)

お読みいただきありがとうございました。

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