バッハ エピソード32 父親の顔
以前、バッハの教育システムについて書かせていただきました。
教育についてはとても熱心で、弟子たちのために惜しげもなく自らの技術を注ぎ込んでいました。バッハにとって『人を育てる』ということは、自らが苦労した経験からも、とても大切なこととして捉えていたのではないかと思います。
さて、息子たちへの教育はどうだったのでしょう?
1. 《フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集》
1720年、バッハは一冊の楽譜帳を書き始めます。
長男フリーデマンが9歳となり、教育目的を兼ねたもので、息子と一緒に5、6年かけて完成させました。
初めに記譜法の説明があり、次に装飾音の一覧表、および指使いの練習が続きます。そしてそのあとに、一連の小品が並びます。
注目されるのは、のちに《インヴェンション》を構成する諸作品、および《平均律クラヴィーア曲集第一巻》の一部となる作品の、それぞれ初稿がそこに含まれていることです。つまり、ケーテン時代後期を彩るクラヴィーア曲の一角が、まずここに姿をあらわしたことになります。
2. 息子たちの大学進学のために転職
ライプツィヒに転職した理由の一つは、息子たちの大学進学のためでした。小さな街だったケーテンには大学がなく、文化都市ライプツィヒには歴史ある大学がありました。当時のドイツ語圏は、現代日本に勝る学歴社会だったので、父親としては自分の仕事よりも息子たちの教育を考えていたようです。
3. 演奏の場を提供
ライプツィヒ時代、コレギウム・ムジクム※のコンサートを指揮していた時は、複数のチェンバロのための協奏曲を書いて、息子たちと人前で共演する機会を作りました。
※コレギウム・ムジクム:ライプツィヒ大学の音楽愛好家を中心とした演奏団体。1729年、バッハが指揮者に就任し「ライプツィヒにコレギウム・ムジクムあり」というほどの団体に育て上げました。
4. 就職を手伝う
就職に関しても、自ら就職先を見つけ、推薦状を書いて後押ししています。
こうしてみると、「いいお父さん!」でした。
さて、ここでアンクルバッハからのクイズです。
バッハの息子たちの中で、バッハが一番音楽的な才能があると判断したのは誰でしょうか?
1 ヴィルヘルム・フリーデマン(1710-1784)
2 カール・フィリップ・エマヌエル(1714-1788)
3 ヨハン・クリストフ・フリードリヒ(1732-1795)
4 ヨハン・クリスティアン(1735-1782)
答えは、1の『ヴィルヘルム・フリーデマン』です。
バッハは長男フリーデマンのことを「あれは私の心にかなったせがれだ」と言っていたといいます。フリーデマンが豊かな楽才に恵まれ、少年時代にそれをすくすくと伸ばしていったことは、《フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集》から知ることができます。彼は後にライプツィヒ大学で法律を学び、1746年からはハレの聖母教会オルガニストになります。しかし彼は職場上の折合いが悪く、1764年にこの職を辞任。偉大な父親の期待を受け、その重圧を支え切るだけの人間的な強さを身につけることができなかったのでしょうか?以後定職にも就かずに、貧困の中で荒れた晩年を送りました。