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J.S.バッハ エピソード

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J.S.バッハのエピソード&イラスト
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2024年1月の記事一覧

バッハ エピソード13 バッハ結婚

バッハ エピソード13 バッハ結婚

1707年、22歳の若き教会オルガニストであったバッハは、「またいとこ」にあたるマリア・バルバラ・バッハとドルンハイム村の聖バルトロメオ教会でささやかな結婚式を挙げます。

マリアはバッハのひとつ上の姉さん女房。父親同士が従兄弟という親戚関係のマリアとバッハは、幼い時に両親を亡くしたという境遇が似ていることもあり、惹かれあったのではと言われています。

子供は7人いましたが、生きながらえた子供は4

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バッハ エピソード14 音楽家一族バッハ

バッハ エピソード14 音楽家一族バッハ

バッハ一族がドイツ中部のチューリンゲン地方に住みついたのは1580年ごろのこと。
「バッハ」という言葉はドイツ語で「小川」を意味しますが、東ヨーロッパの一部の方言で「放浪の音楽家」を意味していたらしいということです。

パン屋を営んでいた曽曽祖父ファイト・バッハから数えてJ.S.バッハまで一族31人の男子のうち、教会オルガニストや宮廷楽師、楽器職人など28人もの音楽家を輩出しています。

J.S.

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バッハ エピソード15 宮廷音楽家に転職

バッハ エピソード15 宮廷音楽家に転職

バッハは、ミュールハウゼンの聖ブラウジス教会に辞表を出し、1708年にワイマール公の宮廷音楽家として赴任します。

ザクセン=ワイマール公ヴェルヘルム・エルンストは、宗教以外のことにほとんど関心を持たない君主でした。宗教以外の唯一の関心ごとは文化活動。特に音楽を重視していたので、バッハにとってもこの転職は願ってもないことだったのです。
そして公爵も自分と同じ考えを持つ若いオルガニストを気に入り、バ

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バッハ エピソード16 イタリア音楽体験

バッハ エピソード16 イタリア音楽体験

バッハは、リューネブルグの聖ミカエル教会の附属学校を卒業後、1703年3月から9月までの半年間、ワイマール公ヴィルヘルム・エルンストの弟である、ヨハン・エルンスト公の小さな宮廷楽団にヴァイオリニストとして就職しました。
その時の雇い主ヨハン・エルンスト3世の居城は、ワイマール公の領主城館ヴィルヘルムスブルクに隣接する「赤い城」と呼ばれた館でした。

5年後、1708年にワイマール公の宮廷音楽家とし

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バッハ エピソード17 オルガン名手 バッハ

バッハ エピソード17 オルガン名手 バッハ

ワイマール時代、公爵はバッハを信頼し、他の町や宮廷での演奏を許していました。おかげでオルガニストとしてのバッハの名声はドイツ中に響きわたります。

カッセルの宮廷で次のようなエピソードがあります。C.べラーマンという人が、
1732年にカッセルの聖マルティーン教会で行なった演奏を表したものです。

「バッハの足は翼が生えたかのように
 ペダルの上を飛び交い、
 力強い響きが雷鳴のように
 教会にこ

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バッハ エピソード18 ハレでの晩餐会

バッハ エピソード18 ハレでの晩餐会

バッハはオルガンの建造計画にアドバイスを求められたり、完成したオルガンの鑑定を依頼されたり、今でいうとオルガンコンサルタントも行っていました。バッハは生涯にわたって50台ほどのオルガンを演奏しており、その時のエピソードがあります。

ワイマールの宮廷オルガニスト時代、ハレの聖母教会のオルガン建造に対する助言を求められ、1713年当地を訪れました。その時からバッハへの待遇はびっくりするほどよく、17

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バッハ エピソード19 ハレ志願→楽師長就任

バッハ エピソード19 ハレ志願→楽師長就任

ハレの中心にある聖マリア教会(聖母教会)でオルガニストを務めていたフリードリヒ・ツァハウが他界したため、バッハはオルガニストの職に応募しました。

ワイマールのオルガンは小ぶりだったため、自らも改造計画に関わった三段鍵盤と65のストップを擁する大オルガンは魅力的だったのでしょう。しかし、契約の段階で、基本給が現在よりも低かったため、就任を辞退します。

これを知った公爵は優秀なオルガニストを失うの

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