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人と人との適正距離。

日ごとに蒸し暑くなっている気がする。
最近、あまり体調が良くなくて、こういう時は大抵、自分以外の何かを取り入れすぎている時なのだと思い出す。自分への集中力の欠如。
自分と自分自身の身体への集中力の欠如とでも言おうか。よく人に対してネタのように「友達いないんで」と言っているけど、いないというよりはいらないというのが正確なのかもしれない。
長期連休などは最たる例で、ほとんどの時間を自分のために過ごす。そしてその方が調子がいい。もちろん出かけたり、人に会ったりもするのだけど、そういう時間はほんの少しでいいのだ。その割合が変わってしまうと、こうして体調に異変をきたすのだから、私の身体は私よりずっと賢い。

BodyとBeingの話がある。
ヒューマノイドというのは、Body(からだ)とBeing(存在)とがドッキングした状態である。からだにはからだの意識があるし、もっと言うなら細胞ひとつひとつに意識がある。本来であれば。
だけど長い地上での生活の中で、私たちはあまりにも長い間、からだとの対話を放棄してきたのではないだろうか。そもそも、対話できることすら忘れてはいないだろうか?それだけでは飽き足らず、からだに鞭打ち、からだを尊重するのではなくコントロールしようとし、Being主体でからだを支配しようとしてきたのではないだろうか?BodyとBeingは本来対等なはずなのに。
だから自分の好きなものがわからなくなったら、からだに訊けばいい。からだはあなたよりもよほど賢いので、すぐさま最適解を教えてくれる。
からだと真摯に対話しながら日常を生きるだけで、びっくりするような体験をすることもある。それはある種の不快さも含むんだけど、不快さえも創造の中には含まれるんだよぁという認識。

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自分の考えにいつでも戻っていく人がいる。問いかけをどんなに贈っても無視されることがある。そういう時、相手の受け取れる量で注がなかった自分の責任でもあるんだけど、そのダメージはからだが負ってくれていたのだな、と今更気付く。
注いでも跳ね返されたそれは、私のからだに負荷をかける。じゃあどうすれないいのか。注がない。あるいは相手が求めているように見せかけて其の実何も求めていないという事実を受け入れることなのかも知れない。相手は変化したくないのだ。慣れ親しんだ世界から。それに気がつかないフリをしていたのは自分の責任だ。

自分の仕事が何なのか、もう見えているなら走り出さないといけない。それをわざわざ誰かに寄り添うフリをして遅くするのは怠慢だ。誰かなんて存在しない。それには簡単で、ただ、時間がかかるフリをしたり、誰かと同じようなフリをしたりするのをやめるしかない。
そういう厳しさを持たないといけない時期に、なってきたんだなと思う。

私の仕事は、誰かの手を必要とするものではない。だのにどうして誰かの意見を取り入れようとしているんだろうか。馬鹿馬鹿しい。

話は変わるけど。
人付き合いの中で、自分から「あげるよ」というのはいいんだけど、相手から「もらえて当然」みたいになってくるのが苦手だ。私から興味や余裕があって、ギフトしたい時はいいんだけど、それをすることでギフトしてもらうのが当たり前みたいになってしまうのはなんだか違う気がする。そういう時はあげたい気持ちすらなくなって、そんな餓鬼(まさしく言葉通りだ)には何もあげるものはありません。お引き取りください…と引いてしまいたくなる。
例えば、漫画を貸す時、最初は「ありがとう」とちゃんとお礼してくれていたのに、そのうち新刊が出るたびに「貸してくれて当然」となってくる。あの感じに似ている。ここまで書いて、かつて自分にもそういうところがあったなー痛い人間だったな、とも思う。
だからこそ、友達などいらないとも思うわけで、その瞬間だけの付き合いだと思えば、自然に相手にそうやって自分の傲慢を押し付けずに済むのではないかと思う。もちろん、関係が連続していく場合もあるけど、それは瞬間の点がたまたま続いただけに過ぎない。友達という言葉に含まれる馴れ合いや甘えや傲慢さが嫌いなのだと思う。それは親密さを履き違えたものだから。
逆に言えば、相手を尊重し、敬意を失わずにいられる適切な距離感が大事だと思う。相手を自分の一部のように誤解した関係は、遅かれ早かれ壊れるのだ。自戒も込めて。

今日はこんな感じの雑記で。

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