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「絵は感性で見るものだ」という言葉のまやかし


「絵は感性で見るものだ」という言葉のまやかしに私は随分と騙されてきたように思う。タロットなんかもそうなんだけど、「絵からイメージされるものを言えば勉強しなくたってタロット占いは出来ます!」と豪語する人もいるんだけど、それってちょっと暴論じゃないかなーというのが個人的な見解。

感性というと「湧き上がるもの」「自分の内からほとばしってくるもの」みたいなふんわりとした語感や雰囲気で理解して話がすすんでしまうのだけど。

感性  
1,物事を心に深く感じ取る働き。感受性。
2,外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。

調べてみてもなんだか余計に分からなくなりそうだけど、何か物体や現象を認識するのが感覚(視覚や触覚、嗅覚など)で、それに対してなんらかの心理的作用を情報として得た時、それを感性というらしい。

でも、自分が認識したものを理解する時、自分の土壌にある程度の知識がなければ容易に誤認が起こりうるということではないだろうか。

ドラクロア「怒れるメディア」

これについては「怖い絵」で有名な中野京子氏の「欲望の名画」という本から事例を紹介しよう。

ドラクロア「怒れるメディア」
本作については忘れがたい思い出がある。2010年、拙著『「怖い絵」で人間を読む』(NHK出版 生活人新書)の元になったテレビ出演の際、スタッフが某美術館の来訪者、年齢性別ばらばらの十数人に、この絵を見せてタイトルも告げ、どんなシーンを描いた作品と思うか、当ててもらった。すると皆が皆、口をそろえて曰く、悪人に追われた母親が子供を守ろうとしている。
ーー絵は己の感性だけで味わえば良し、との鑑賞法がいかに誤解を生みやすいかの好例であろう。  
 
  中野京子「欲望の名画」(文春新書)

このあとに解説が続き、実際にはメディアは自分の内縁の夫が自分以外の女性と正式に結婚を決めたことに腹を立て、復讐のために自分の腹を痛めた夫との子を手にかけようとしているシーンであることが明かされる。メディアは我が子を守ろうとしているのではなく、殺すために連れ出したのだ。

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このように、元ネタである物語を知らないで絵だけを鑑賞した場合、大きな誤読が生まれてしまう可能性があるのだ。だから、ある程度の知識や前情報はあったほうがいい。この絵に何が描かれているのかを知り、その上で作品(実物)と対峙し、自分が何を感じ取れるのか吟味し、味わうのがここでいうところの本来の「感性」なんじゃないだろうか。自分の勝手に持った印象で決めつけないこと、そしてそれを正しいとしてしまわないこと。自分にはたくさんの思い込みや決めつけが存在していること、それを実際に知覚する体験として。そういう知的な刺激として絵画を鑑賞するのもまたおもしろいことなんじゃないかしら。

この作品を感性(という名の決めつけ)で鑑賞した人々は「我が子を守ろうとしている」と認識した。それはつまり、「母親は子供を愛するもの」「母親は子供を守るもの」という前提がその人の中にあるのだろうし、絵から読み取った情報もこのように処理されたのではないだろうか。「母親と子供が必死に走っている。母親は後ろを気にしているの誰かから逃げているのかも?つまり、親子は追われている。きっと母親は子供を守ろうとして隠れようとしているんだ」おおよそこのように認識したのではないだろうか。実際には、真逆の情景であるにも関わらず。だから自分の想像力やイメージ力なんてものは自分の知っている世界を出ることはない。ほとんど役に立たないと認識した方がいい。あなたの感性は、母親が子供を殺す可能性を想像できなかったのだから。

予備知識なしで見ることで「自分の持っている印象というのはこのように偏ったものなんだな」と認識を改める機会になるので、否定はしない。だけど、予備知識なしで見るのであればそのあとに知識として、どのような背景で何を描いたものなのかを知ると、何倍も深く作品を楽しめるのではないだろうか。


「正しいと思っていること」と「正しいこと」の違い

一番よろしくないのは「自分はこう思ったからこうなんだ」で終わりにしてしまうことだろう。「自分が正しいと思ったこと」と「正しいこと」というのは違う。この区別がつかない人がたまにいて、この場合でいうと「自分は母親が子供を守っている絵だと思った!自分はそう思ったんだからそうなんだ(正しいのだ)」という理屈は通らないのだけど、そういう風に誤認したものですら「感性の違い」として片付けようとすることが多発している気がする。

「私はそう思ったんだけど、あなたは違うんだね。まぁ、感性の違いだね」とはならないからね。それはただの誤解だし、本人の妄想の中の世界ではそうなんだろうけど、あくまでそれは妄想なんだよね。だから「私は私の妄想を信じる!」っていうのなら、否定はないないけど、ねぇ…って感じ。これって絵の話に限らず、そういう「自分が正しいと思ったこと」が「正しい」のだと主張して生きている人って多い。だけど本当はそんなことない。個性やら感性やらを偏重しすぎるとそれらの偏りを壊す機会がなくなっていくんじゃないかしら。それって有り体に言えば老化で、そうやってこれまでの自分の認識を壊す機会を失ってしまった人が「老害」と呼ばれる存在になっていくのかも知れないと思う。


事実を受け取ろう。それだけで絵画鑑賞はあなたを豊かにしてくれる。

「自分はこう思ったからこうなんだ」というのは本人にとってはそうなんでしょう。でも、その認識を壊す機会が目の前に来たのだとしたら、受け取ってみたらどうだろう?「自分は母親は子供を守るものだと思い込んでいたゆえにこの絵を誤解をした」という事実を受け取れよってこと。それを受け取れるだけで、あなたの絵画鑑賞はとても豊かなものになるでしょう。だって、もうあなたはその決めつけを外した自分になれるのだから。「この絵は、母親が子供を守っている絵かも知れない。でも、そうじゃないかも知れない。真実はどうなんだろう?」そう思って鑑賞できることの、何と豊かなことよ。それって視点を手に入れることなんだよね。あらゆる可能性があり、善悪はなく、正解も不正解もない、タブーもない。その状態から、この情景は何を指し示すのか知りたい。そう思って作品に対峙するのとでは解像度がまるで違う。そうやって自分がアップデートする機会を得られるんですよ。なんておもしろいんだろう。


「感性」という名の「決めつけ」をやめる。

私が占いをするときに大事にしている視点はまさにそれで、そうしてフラットな視点でカードや数字と対峙することと、一枚の絵と対峙することはとても似た行為だと思う。自分の知っている世界から脱するために占いを使うのだから、自分のイメージの世界で頑張ろうとするのはかえって他人を自分の妄想に引きずり込むことに繋がる。だから、イメージや感性はそこまでアテにしない方がいい。「感性」という名の「決めつけ」をしていないか、自分を常に注視したほうがいい。そのためにも中立な視点を保つために知識はあったほうがいい。タロットでいうなら、作者が何を参考にして制作しているのか、そのベースになっている知識がどういうものなのかというのはある程度知っておいた方がいいし、シンボルや色彩についての知識もあった方がいい。それは読み解きの解像度を増すことに繋がるから。知識をある程度詰め込んだ上で、実際の読み解きの際にはそれらを一旦忘れ、先に言ったような視点でフラットに対峙していく。そうやって自分の予想を超えた世界がその盤面に広がっているのを見ることはとてもおもしろい。

だから自分は占いはとても真剣な知的遊戯だと思っている。だから難しい顔をする必要はないけど、絵画にしろ占いにしろ、真剣に取り組んでみればおもしろい世界がみえるんんじゃないかな。それこそ、自分の予測や予想なんてちっぽけなところを超えて。


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