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【コンポーザーズノート】T1008の「へぇ~集」

コンポーザーズノート。今日は T1008 です。

Tをイニシャルに持ち、10月8日生まれの作曲家。
今回は 武満徹 です。

前回の三善晃に続き、武満も日本の現代音楽を語る上では外せない作曲家です。東京オペラシティ(初台)のコンサートホールが「タケミツ メモリアル」の名を持ち、武満徹自身がホールの設計段階に関わっていたことからも、ホールにいくといつでも武満を感じることができます。

『風の馬』などの難解な合唱作品も作曲している一方で、「〇と△のうた」や「死んだ男の残したものは」などの親しみやすい作品もあります。

そんな武満の「へぇ~」と思えるようなことを学生が集めてくれたので、ご紹介します。

へぇ~集:T1008

※「ほんとかな~?」と気になったものがあれば、真偽はご自身でチェックしてみてください。
※学生の文章をそのまま載せています。

・美術との関わりが濃密に聴かれる曲もある。M. レイの写真、J. シロの彫刻などを見ては視覚体験を醸成させて自身の作品へ昇華させた。

・1951年9月、音楽家、画家、演奏家、詩人たち十数人とともに総合的な芸術活動を目指すグループは「実験工房」と命名される。

・1996年2月はじめ、入院先の病院でグレン・グールド賞受賞の知らせを受け、その後2月20日に癌のため65歳で死去。

・中学校でのあだ名は「ツェッペリン」であった。

・音楽をやりたいと思うようになったきっかけは、勤労動員時代の上官だった士官が、当時禁止されていたフランスのシャンソン「聴かせてよ、愛の言葉を」のレコードをきかせてくれたこと。

・軍事教練で、教官の手塚金之助少尉からしごかれ、入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだら、目の前にその教官がいて殴られた。

・晩年、オペラに初めて取り組もうとするが、『マドリガーダ』は完成しなかった。

・東京音楽学校の作曲家を受験。しかし、熊田という天才少年と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し、2日目の試験を欠席して映画を観ていた。

・デビュー以前はピアノを買う金がなく、街を歩いてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていた。

・晩年病床に伏していた武満は、これまで自身が口にしたものや空想の献立のレシピをイラスト付きでノートにスケッチしていた。

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