ギターをたくさん弾いた日
前回、前々回とトリプルファイヤーに関する真面目な記事を続けて書いた。なぜああいう記事を書いたのかと尋ねられたら、書きたかったから書いたのだと答えるしかない。真面目かと突っ込まれたら、誠に残念ながら真面目ですと真面目に答えるつもりだ。
根がセレブリティの人物は、どれだけ人々から視線を注がれようと溢れることのない巨大な器を携えており、その主体性はぐらつくことがないように見える。自分が客体であることに慣れているといった印象を受ける。その他にも、器の底が抜けていて注がれた視線は体の中をただ通り抜けていくだけ、というタイプのセレブリティもいると思われる。「空洞です」の世界を体現する人物である。
私の場合、そもそもの志向としてセレブのセの字もない人間なので、客体でいることへの耐性がものすごく低い。どちらかといえば、見られるよりも見ていたい。世界の隅っこのほうで雑草を抜いたりしながら物思いに耽っていたい。
ミュージシャンが自分の取り組みについてごちゃごちゃと能書きを垂れるのは、ひょっとすると着ぐるみの中身が身の上話を始めたときのような気まずさを人に与えてしまうのかもしれない。客体だと見做していた人物が主体性を発揮するところを目にすると居心地の悪さを感じる場合がある。私も店主の趣味のフィギュアなどが飾られている飲食店に入ってしまった場合にプロ意識が足りてないと感じてしまう。
制服を着用する職業の人がコンビニを利用していたり、公園で休憩していたりするとクレームを入れる人がいるというにわかには信じがたい話がある。役者が舞台上で素の姿を晒してしまったかのような気まずさがクレームという行動にその人を駆り立てているのだと思われる。
いずれにせよ、なるべくなら人様をぎょっとさせたくないのだが、私の頭の中の思念がこの世界に存在しなかったことになるのはなんだかやるせないので、改めて文章にした次第である。
自分にとって文章を書くことは主体性を回復させるための作業だといえる。いろんな人がいていろんなことを言うのでしばしば混乱する。そうした際に頭の中を整理整頓するために文章を書いている節がある。
自分の主体性を回復させることは必ずしも他人を客体化することとは一致しないというのが私の考えだ。他人をマニピュレートするつもりで何かを書いているつもりはない。しかし、言語にはマニピュレーションという機能が備わっているから、それが指示や命令のように受け取られてしまう可能性はゼロとはいえない。だからこそ「べき」と「すべき」を混同するなとよく言われているのだと思われる。
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