見出し画像

2日目(2) - ボースン、刺青、ボウズ

(前の記事)

 この日同行したのは、僕が勝手に「ボースン」と名付けていた巡査であった。黒澤明の『天国と地獄』に出ていた「ボースン」そっくりだったからである。日頃は剽軽だが、いざというときにはドスの聞いた怒声を飛ばすところも何となく「ボースン」なのである。

 車で宇都宮地検へと向かう。窓外の景色が、たったの24時間で、すっかり別世界のようである。自転車通学の学生、荷台に資材満載の軽トラ、信号待ちで携帯で話すサラリーマン、なんだか妙な違和感を感じる。車内でもらった煙草を吹かしつつ、それらの光景に見入ってしまった。

 地検につくと、まずは地下の待合室へと向かう。待合室と言っても、当然、普通ではない。ちゃあんと格子が入っていたり、小さな小部屋に分かれていたりと、犯罪者対応になっている。僕とボースンはその一室に入り、呼び出しを待つこととなった。ボースン曰く、「長いと半日待たされることもある」由。
 途中タバコが吸いたくなったのだが、灰皿がなかった。すると、ボースンがどこからともなく、空き缶を見つけて来てくれた。ふたりして、ポケーッと煙草を吸った。

 小一時間で、呼び出しがきた。取り調べにあたった検事は腺病質な感じの男で、「風邪をこじらせてしまいまして……このままで失敬」と、防塵マスクをつけたままの取り調べであった。

 取り調べと言っても特に深い質問がある訳ではなく、簡単に、僕が間違いなく被疑者であるどうか、容疑の罪状も間違いないかどうかを尋ねる程度の、ごく形式的なものである。ものの十分程度で終わる。

 そのまま隣の裁判所へ移動、こちらはすぐに呼び出され、あっという間に「十日間勾留」が決定する。当然のごとく、「接見禁止」もついてくる。予想通りとは言うものの、現実に書面で突きつけられると、いささか消沈する。帰りの護送車「ステップワゴン」の中から見る外の景色が、妙に溌剌として感じられた。

 留置場に戻ると、すぐに昼食であった。同房のふたりは取り調べに出ているのか、不在であった。
 なんだか、ボウッと食事をとった。
 ようやく、先の長さが実感されて来たのであった。

 夕食前、同房のふたりが戻ってくる。ここらで、ふたりを紹介しておこう。

 刺青氏。年は若く、まだ20歳後半だがこの部屋では先輩格になる。大柄な男で、地元の暴力団員である、いや、正確にはだった。というのも、たいていの場合、逮捕されると「脱退届」を出すか「破門」の形をとり、組とは一度手を切る。これは組を守るためもあるが、組員であるかどうかが後の判決にも大きく影響するので、一時的に縁を切り、出たらまた、元のサヤに納まるのだそうである。
 彼の背中一面には刺青が入っているのだが、作業途中で逮捕されてしまい、半分がた未着色であった。無口な男だったが、後刻部屋を移されるといきなり元気になったところを見ると、実はシャイな性格だったようである。もっとも、地元民でもなければ「不良」でもない僕に、同じ犯罪者とはいえ全く毛色の違う恐喝犯のボウズ氏が同室では、話も合わなかったことだろう。「不良」とは、『業界用語』で暴力団員もしくは、それに準ずる人を指す言葉である。
 この春先、ここ宇都宮周辺では暴力団同士の大きな抗争があり、やっと手打ちで落ち着くかつかないかの頃に、彼は覚醒剤で逮捕されてしまったのだそうな。時々「大事な時に、こんなみっともない罪でつかまったら、責任取らんといかんだろう……」と言っていたが……彼は彼で、厳しい世界の住人である。

 ボウズ氏。見たところ60才くらいか。なぜか決して年を明かそうとはしなかったが、当方としても、おっさんの年にさして興味はなかったので、深くは追及しなかった。
 やたらと元気で多弁。口癖が「一発逆転! これが俺の最も好きな言葉」
 大手の運送会社を、実にささやかな事(詳しくは聞かなかったが、まぁ、人に例えると「目が合った」程度の理由であった)で強請ろうとして捕まったらしい。朝から晩までずっとノートに向かい、出た後、どうやって相手を引きつづき強請って金を取るかの計画を練り続けていた。一日に何度もそれを読み上げて、「どうかね? あんたならどう思う? どこか穴があるかネ?」と聞いて来るのだが、さすがにそんな事に加担もできないので、相手の会社に送りつける文書の「添削」だけはしてあげた。
 彼はこの二日後、不起訴処分で釈放されたのだが、担当が「荷物をまとめようか」とやって来た時も小躍りして「やった! 一発逆転だ! 期待しててね、そのうち、でっかい事が報道されるかもよ、フフフ……」と不敵に笑いながら出て行った。
 その後、特にこれといって何の報道も無いようだが、大きく報道されるという事はまたしても失敗して捕まったという事でもあり、何も出ないという事は、上手く強請れたのか、はたまた諦めたか、いずれにせよ、まさに“懲りない”人であった。

(つづく)


※この手記は2003年に執筆されました。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。