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【4/14・15広島戦●●】「やり場のない思い」の、行きどころ

サヨナラというのは、見てる方もそりゃもうやり場のない思いを抱える。「やり場のない」という表現がほんとうにしっくり来る。広辞苑の用例に入れてほしい。とにかく、負け方の痛みとしてはかなり強い。

前日は、1-0のまま、降雨コールド負けだった。これもまあなんというか消化不良感の残る負け方だけれど、その翌日のツーアウトからの逆転サヨナラというのはやっぱりとても、とても、つらい。

「やり場のない」思いは、その日ずっと、つきまとうことになる。そう、ホテルでおいしいコースを食べていてもふとした瞬間に「ああそうだった今日ヤクルトはサヨナラ負けをしたんだった・・・」という思いが、頭をよぎる。仕方がない、「やり場のない」思いなのだから、どこにも追いやられることなく、心の奥にとどまり続けているのである。

だいたい、その思いというのは、時間にしか解決できない。つまり、翌日の試合を待ち、あるいは翌シーズンを待ち(長いな、)、また良い勝ち方を目にすることで、その傷が癒えていく、そんな感じである。時間がかかることもあれば、その次の試合にぱっと晴らされることもある。まあ、でもなんにしろ、時間というものがそこには必要なのだ。

でも今日私は、やり場のない思いが、すっとどこかに追いやられるような、いや、追いやられるというほどではないけれど、まずはこの心の片隅にそっと置いておかれるような、痛みをどこかで預かってもらえるような、そんな体験をした。それは、初めてのことだった、と、思う。

初めてのサヨナラを許した田口は今日、こうつぶやいた。

「今日は文句を浴びせてください!明日からの活力に変えちゃいます」

言えない。なかなかそんなこと、言えない。

私のやり場のない思いは、とりあえずの行きどころを見つけてもらったような、そんな気がした。なぜなんだろう。一人で少し、考えていた。

おそらくそれは、もちろん「そうだ田口に文句を浴びせたらいいんだ!」ということではなく(コメントを見ても誰も文句なんて浴びせていない。当たり前である。)私がサヨナラのときに抱く「やり場のない思い」には、悔しさも悲しさもやるせなさもあるけれども同時に、打たれたピッチャーがどんな気持ちでいるんだろう、大丈夫だろうか、ごはん食べられてるだろうか、寝られるだろうか、明日も球場こられるだろうか、元気だろうか、泣いてないだろうか、おなかいたくないだろうか、どうだろうか、みたいな、よくわからん心配にとりつかれているのである。

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