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休校から一週間、今思うこと。

急に子どもたちが春休み(でもないのだけれど…)に突入して約一週間。もう二度とこんなことはないと思うので(ないように願うので)、この機会に個人的にいろいろ考えたことを、残しておこう、と思います。

1)基本的に、さすがにちょっと乱暴だ、とは思っている

息子のクラスで、休みを知らされた子どもたちが教室で次々に泣き出した、というのを聞いて、そうだよなこれは子どもたちから、「大好きな場所を奪う」ということだったのだよな、「安全に学び、大いに遊ぶ場」を一方的に奪うことだったんだな、と、なんかはっとしました。

もちろん、その決断自体が「医学的に」必要だったということはあるかもしれない。その最終的な判断は医療者でない私にはできない。(ただ、素人考えでは、学校が休み、でも学童は開ける、というのは矛盾しているのでは、と思いますが。)

それにしても、どんな根拠があったとしても、一方的に「明日から来ないでください。家にいてください。」と言うのはやっぱりなんというか、ちょっと、あまりに乱暴な決断だ、とは思っています。もっとできること、学校が休みの間の子どもたちの生活を考えることや、親の仕事について考えることはできたのではないか、それを伝えることはできたのではないか、と思っています。

いつもどおり運営してくれる保育園に、毎日楽しそうに通う卒園間近のむすめとお友達を見ていると、この時間をもし急に奪われていたら、と想像し、小6、中3、高3の子どもたちの寂しさは計り知れないものだろう、と、胸が痛みます。

そしてもちろん、「明日から子どもは休み」と言われた親(その負担の多くはまだまだ母親であることが大きい)への想像力を、あまりに欠いていると言わざるをえない。

そりゃもちろん、一つの国のえらい人に、自らも政治家の一家で育った人に、一般家庭の、例えば子どもが熱を出すたびに仕事はどうしようかと頭を抱えたり、ちょっと胸を痛めながら病児保育に預けたり、あるいは病児保育が見つからなくて仕事を休むことになってそちらの罪悪感で胸を痛めたり、という、いつも向き合い続けている「ありふれた」葛藤は、ちょっと想像もつかないだろうとは思う。私が、幼い頃から「政治家」の家に育つその気苦労みたいなものが、想像もつかないように。(きっととんでもないプレッシャーと戦い続けているのだろう。)

だけどリーダーというのはやっぱり、たとえパフォーマンスだとしても、人の葛藤や痛みというものに、できる限りの想像力を働かせ、知ろうとする必要があるんじゃないのかな、とは、思います。それはきれいごとというよりは、もっと、組織を動かしていくために必要なものとして。

ただ、例えば10年前よりは、これでも、企業側の受け入れ態勢は、少しは、柔軟になっていると思う。これが10年前なら、もうどうしようもなくなって、企業も母親ももっとパニックになっていた気がする。

「在宅勤務」「リモートワーク」という言葉が積極的に出てきたのは、時代の(もちろん前向きな、良い)変化だよな、と、思います。

2)自分の頭で考えることの大切さ

一斉休校の「要請」が来て、ほとんどの学校が休校を「決定」しました。私も「上が決めたことなので…」という説明を受け、「とにかく、休みです」という話を聞きました。

一方で、自治体によっては、学校を続けることを決めたり、休校に入る日を少し遅らせたり、児童を預かることを決めたところもある。

こういう時、ただ「上が決めたことなので」と言ってしまうのと、しっかりその「要請」が自分たちにとって必要なのかどうかを考え、自分たちで責任を持って「決断」することができるのとでは、大きな違いがあるな、と、思います。

その決断の良し悪しに差があるというよりは、しっかり考えることができるのかどうか、というのがすごく大切だな、と。

この緊急事態で、自分たちで物事を考えることのできる人たち、というのはやっぱりとても頼もしく思える。

と、こんなことを書きながら、自分の身を振り返ってみれば、特にサラリーマンの時は「上が決めたことなので」という態度をとることだって多かったよな、と反省します。

どんな時だって、自分の頭でしっかり考えていかなきゃいけない。それが「自分たちにとって」本当に必要なのかどうなのか。そして決断し、さらにそれを実行する勇気を、やっぱりしっかり持っていなきゃいけないな、と思います。私自身もそれは、これを機に、この先しっかり意識していこう、と。

3)今目の前にある全てが「正しい」わけじゃない

「子どもは学校にいかなきゃいけない。学校はサボっちゃいけない。」「子どもは外で元気に遊ばなきゃいけない。家に閉じこもっていちゃいけない。」

それが、ついこの間までの「正義」でした。

でもその「正義」が、ある日突然、一日にしてひっくり返ってしまう。

あれだけ、例えば「行きたくない」と思う日だって、大人たちから「行きなさい」と言われ続けた学校に、「行っちゃいけない」と言われる。

「家に閉じこもってないで外に出なさい」と、言われていたはずが、「公園で遊んでいるなんてけしからん!」と通報される。(これ、本当にありえないので屋外はOKとか正式に出して欲しい。)

子どもたちは今、この理不尽とも見える現実に思いっきりぶつかっています。

だけど確かに、世の中の「正義」と見えていたものは、一日にして覆ってしまうものかもしれない。

子どもたちが今の厳しい現状から学ぶことのできる数少ないことはこの、今まで「正しいことだ」と、「正義」だと思っていたことが、「本当はそうじゃないのかもしれない」と、考えるきっかけになることなのかな、と、思っています。

学校へ行きたくない子どもがいる。外で遊びたくない子どもだっている。こんな環境に、なる前から。それは本当に、大人から責められるべきことだったのだろうか。学校って本当に、「絶対に」いかなきゃいけないものだったんだろうか。外で元気に遊ぶことだけが、「子どもらしくて良い」ことだったのだろうか。

これはつまり、2)の「自分の頭で考えることの大切さ」にもつながっていくことなのかなと思います。

自分はどうして、学校へ行かなきゃいけないのか。逆に、どうして今は学校へ行けないのか。「そう大人が言ったから」という、今の大人みたいな考え方ではなく、未来を担う子どもたちが、「自分の頭で考える」ことができるように、しっかり伝えられることは伝えていかなきゃいけないな、と、思ったりしています。

そんなこんなが、私がこの一週間で感じたことです。「あんまり怒ることがない」と、言われる私でも(ヤクルトのいらんエラーにはしょっちゅうおこってるけど)「いやいやちょいと待て」と言いたくなることもたくさんある。でもそんな中でも、お母さんたち、お父さんたちは、急な事態にも知恵を絞り、必死になって、乗り越えようとしています。(ただ国がその「努力」に甘え続けちゃだめだ、と強く思っています。)

とにかく、今は「正しく怒り」ながら(そしてそれは本当に「正しい」のかと自分の頭でいつも考えながら)、目の前の現実と向き合い、今だから子どもたちに伝えられることは、しっかり伝えていこう、と思う。

みんなが早く元気に、学校に行けますように。(そして「行きたくない」と思う子どもたちにだってちゃんと居場所があり、健やかに成長できる社会でありますように)

そしてこの春、卒業を迎えるみなさんの新しい日々が、どうかどうか、素晴らしいものでありますように。祈っています。

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