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さらに島へ、向かう。ーー宮古島から大神島へ

十数年宮古に通い、初めて路線バスに乗った。

バスに乗る前に、「モジャのパン」とくになか食堂の天ぷらを買い込む。「池間までバスで行くの?」と、「モジャのパン」のお姉さんは言って、バス停の場所を教えてくれた。(バス停は、その2軒から歩いて3分ほどのところにあった。)バスで目指すは島尻港。そして、そこから船で大神島へ向かうのだ。ちょっとしたプチ旅である。

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バスに乗ると、運転手さんが「どこまで?」と、聞いてくれる。バスには、地元のおじいとおばあしか乗ってない。明らかに私たちが観光客だとわかるのだろう。

子どもたちと私は、「英語を話しちゃいけない」ゲームをする。息子は私に、「おかあさん、巨人の色の宮古島の果物の名前って、英語?」と聞いてくる。あぁマンゴーが食べたい。と、私は思う。


バスは途中、ハンセン病の療養所を通った。今は病院としても使われているその建物は、オレンジの屋根が青い海にとても映えてきれいだった。悲しい過去があったことなんて信じられないくらいに。でもそういうのを含めて、この島はいろんなものを抱えているのだよな、と、改めて思う。

敷地内では、もうすぐ始まるお祭りの準備をしていた。過去と未来は、繋がっていく。過去を抱えながら、目をそらさずに、だけど悲観しすぎないように。

窓の外を見ていたむすめが突然、「おさかなみたとこのおにーさんだ!むすめちゃんたちが着たふくもある!」と言う。外を見たら、なんと八重干潮のシュノーケルツアーでお世話になったお兄さんたちが、ウエットスーツを干していた。

こんなとこに事務所があるなんて全く知らなかったし、だいたいそれがお兄さんたちだとよく気づいたなむすめ。子どもの観察力ってたまにめちゃくちゃ驚かされる。

窓の外の景色にいちいちテンションが上がる、やっぱり明らかに観光客のわたしたちに、バスの運転手さんはちゃんと降りる場所を教えてくれた。

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島尻港へ行くバスは、日に4本くらいしかない。そして大神島に行く船も、日に4〜5本しかない。

だからバスが島尻港に着いた時、次の船が出るまでは1時間くらい時間があった。もちろん、島尻港にはなんにもない。なんなら、チケット売り場にも誰もいない。時間が近づくまで、売りにも来ないスタイルらしい。

だけどこの何もない港は、買ってきたモジャのパンと、くになか食堂の天ぷらを食べるのには最高のロケーションだった。

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だーれもいないベンチに座り、真っ青な海を眺めながら、子どもたちと三人でゆっくりごはんを食べた。子どもたちは、いつの間にか「英語を話しちゃいけない」ゲームのことは忘れて、けたけた笑っている。

美しい海をなぞるように、宮古の風がそっと吹き抜けていく。

15分くらい前になって、ようやくチケット売り場に人がやってくる。15人くらい乗ったらいっぱいになりそうな船もやってくる。こういう時、乗れなかったらどうするつもりだったんだろうか、と、我ながら思う。そういうところ、とても無計画なのだ。

往復チケットを買って、行きのチケットをおじいに渡すと、「帰りはチケットいらないからねーそのまま船乗ってねー」と言われる。

いやいやそんなことある…?と、手元に残った帰りのチケットを見つめながら私は思う。

だけどよく考えたら、離島というのは、ランニングにおける橋と同じで、行ったら必ず帰らなきゃいけない。なんせ大神島の人口は約25人。その25人以外はみんな「帰る人」なのだ。船のおじいからすれば、「帰る人」は当然、帰りのチケットは買っているとわかる。だからチケットもいらない。

改めて大神島の「小ささ」を知る。


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大神島へ行くのは、初めて宮古へ行った時以来、13年ぶり。

13年経っても、大神島はちょっと尋常ではないレベルの美しさで、13年前と同じようにそこにあった。その美しさは、神様をなにも信じない私にすら、かみさま(のようなもの)を感じさせた。

13年前、当時大学生だった私は、大神島の持つ「なにか」に圧倒された。でもその時は一人じゃその「なにか」を消化しきれなかった気がしていて、今回は島のにいにのガイドを頼んだ。

神様の行事が始まる家、海賊の話、そして数ヶ月の間、毎月4日間行われる祭事の話。にいには、ゴルフカートみたいな車で小な島を案内しながら、教えてくれた。島で唯一の犬が、隣を並走してきた。

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祭事が始まる日、白装束に着替えたおばあが山をのぼる。その姿は、誰にも見られちゃいけない。誰も見ちゃいけない。もちろん、おばあが寝泊まりするところは、他の誰も入っちゃいけない。

そしておばあは、四日間断食して山にこもる。

昔は、祭事の日にはたくさんのおばあが、歌を歌いながら山をのぼり、そして山にこもった。その歌はふもとまで聞こえ、島の人たちは「ああ今おばあたちは山に入ったのだな」とわかった。

でも今は、84歳のおばあが一人だけ。もちろん歌も聞こえない。

高齢のおばあだから、このずっとずっと続いてきた祭事があと何年続くかも、わからない。

それが、にいにからわたしが聞いた、この島の祭事の話。


あと30年もすれば、この島は無人島になるかもしれないよーと、にいには言った。

昔、リゾート開発しようとした人がいたけど島の名義人が死亡しているとかいないとかでどうしようもなかったらしい。

この美しい島が、リゾートの島になってほしいかというと、全然違う。だからと言って、無人島になってほしいわけでもない。

移りゆくのは仕方がないことだけれど、なんとかならないものか、と、思ってしまう。そんなものは、旅行者のエゴなのだけれど。

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にいには、その辺に実っているグァバをもぎって、私たちに食べさせてくれた。まだ熟してないねぇ、と笑って言っていたけれど、それは今まで食べた中で一番おいしいグァバだった。


13年前にこの島に初めて来た時、神様も仏様もなにも信じない私が、それでも何か言葉では表せないものを、この島に感じた。

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それはもちろん、美しすぎる自然が作り出す地形と景色であり、浅瀬を上から覗き込むだけでニモが見える、私が世界で見た中で一番美しい海であり、そしておそらく、この島の人たちがずっと必死に守り続けてきた「神」を感じたからなのだろうと思う。

私が感じたそれは、たぶん、この島の人たちが信じる神そのものとは少し違う。私が感じたのはおそらく、この島の人たちが神を信じ、それを尊び、心底守ってきたその心持ちそのものだ。

それは、損なわれてはいけないものなんじゃないかと、遠くの外野からとても自分勝手に、そう思ってしまう。

移りゆくものは仕方がない、形あるものが失われてゆくのは自然の定めだ、だけどそれでも、人として生まれた限り、守りゆかなきゃいけないものはあるんじゃないのか、それがつまり、伝統とか文化とか、そういうものなんじゃないのか、と、やっぱり思ってしまう。

失われゆく美しい島の生活を、文化を、目の前に、ただひたすらに、そう思う。

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バスの旅が思いの外楽しかったので、帰りも島尻港からバスで帰ることにした。

もちろん、バスの時間までは1時間半くらいあったので、島尻港にポスターが貼られていた、島尻集落唯一の売店、島尻購買店まで歩いて行ってみることにした。

ゆっくり歩いた島尻集落は、平良あたりの街中とはまた違い、穏やかで独自の空気が流れていて、なんだかとても良いところだった。

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購買店に着き、ここからバスで平良まで帰れますか?と聞くと、お店のねえねが、あそこのバス停に停まるから、バスの時間までここでゆっくりしてていいよーと、子どもたちにあめちゃんをくれた。

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お店の椅子に座り、島尻のお祭り、パーントゥの映像を見せてもらったのだけれど(まさにこの購買店の目の前でお祭りが行われていた)、別のお客さんが帰った後、ねえねが、「今のお客さんが、あのパーントゥだよ」と笑って教えてくれた。お面をかぶり、泥を塗りたくるパーントゥの正体を、私たちは知ってしまった(笑)。

そこに置かれた本を読んでいて、島尻の祭事は、大神島を親と崇めて行われてることを知った。繋がっているんだな、なんだって。大神島の祭事は、というか大神島自体が、この辺りの人たちにとってとても大切なものなのだろう。いつかそのあたりのことを取材できたらいいな、取材したいな、と思う。


バスの時間が来て、ねえねにありがとうを告げてバス停へ向かう。すると後ろからねえねが、走って追いかけてきて、むすめが忘れた帽子を届けてくれた。

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帰りのバスでは、母さんが爆睡してしまい、運転手さん(行きとおんなじおじいだった)が、行きに乗ったバス停で、起こしてくれた。

最後の最後まで、どこまでもあったかかった。

やっぱり、その土地にそっと触れるような、そういう旅はいいな、と、思う。そういうのはいくらお金を使っても、得られないものだから。

そして私はまた、「より島へ向かうべき」という我が家の家訓を思い出す。そこには忘れかけた大切なものが、そして守るべき知らない世界が、そっと存在しているのだ。

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