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決して取り戻せないこと。心を決めて現実を受け入れるということ。

「noteを休止しようと思う」という記事を書いたのがつい二日前のことだというのに、舌の根も乾かぬうちにこうして記事を書いているのは、私の中で一つけじめをつけなければならないことがあるからに他ならない。

12月2日、金曜日。
私は取り返しのつかない過ちを犯した。
飼っているカタツムリ二匹を、殺した。
私が、殺してしまった。

自然界のカタツムリは、気温が下がると枯れ葉や土の中に潜り込み、冬の間眠りにつく。
しかし、体の小さな幼いカタツムリは厳冬期を乗り越えられず、冬眠から醒めない個体も数多くいるらしい。

我が家のカタツムリは、一匹は8月に、もう一匹は10月にやってきた今年生まれたての幼いマイマイたちだったので、気温が下がってからというもの、温度管理にはことさら気を配っていた。
就寝前と朝の出勤時には、ケースと一緒にレンジで温めるタイプの湯たんぽを保温バッグの中に入れ、Bluetoothの温度計で温度の推移を確認し、上からブランケットで包んだりしながら20度前後が適温というカタツムリの生態に合わせて温度を調整していた。
その甲斐あって二人共に食欲旺盛で、毎日モリモリ食べ、モリモリ排泄し、スクスク大きくなっていた。

毎日そんな彼らのいきいきとした姿を見るのが楽しみで、帰宅すると真っ先に「マイマーイ、ただいまー」と呼びかけるのが日課になっていた。

12月2日もそうだった。
いつもの金曜日のはずだった。

帰宅した私は、ありきたりな言葉だけれども、その言葉通り「変わり果てた」マイマイたちを発見した。
温度調整のために保温バッグの上から掛けていた電気ブランケットの電源を切り忘れていたせいで、30℃程度までしか温度耐性のない彼らを、高温に晒してしまった。

バッグを開けた瞬間に、悟った。
「あぁ、これはもう駄目だ」と。

いつもよりもソワソワして、気がそぞろだったその日の朝の私に「ほら、ちゃんと見なきゃ!」と喝を入れてやりたいし、できることならあの朝に戻りたい。
後悔してもしきれない想いで毎日を過ごしている。

12月3日、土曜日。
少し前に注文していた小動物用ヒーターが届いて、泣いた。
届くのがあと一日早かったら、と。

12月4日、日曜日。
洗濯をしていると、マイマイたちに使っていたハワイアンキルト柄のタオルが目に入り、また泣いた。

12月6日、今日。
患者さんに頂いたアワビを調理していて、同じ貝類のマイマイたちの最期もこんな姿だったな、と涙が溢れた。

何かにつけて、思い出してはメソメソ泣いてばかりいる。

昨日、家族以外の誰にも話せなかった私の罪を、とある人生の先輩に告解した。
その方からのお返事が、私の明日への道を開いてくれたような気がして、何度も読み返しては噛み締めている。

生きものを飼うということは、その時点で自然とはかけ離れた状態(自分では自然の状態を頑張って作ったとしても)にしてしまうのだから、実はその時点で生命を奪ったというか、頂いたという割り切りが必要なのかもしれない。
残酷な言い方をすれば。
自然は厳しく、外敵がいる中その生命をまっとう出来ないかもしれないけど、生きた時間で人間みたく幸不幸を決めるもんでもないと思うし。
その理屈で言えばマイマイたちも悲しんでいるわけではない。
人間的に言えばメイさんの元で美味しいものを食べさせてもらい、外敵からも身を守られて幸せな時間を過ごしたと思う!
いつも一生懸命にどうしたら過ごしやすいか、何を食べるか?を観察、研究しながら虫たちに注ぐ愛情は尋常じゃない、と思うし。
そうでない人がほとんどだから。
やっぱりマイマイたちは幸せだった!
ごめんよ!マイマイ!
いろんなこと教えてくれてありがとうマイマイ!
許してねマイマイ!
大好きだったよ!マイマイ! またいつか形は変えてもお互いの生まれ変わりで会いましょう!
で、割り切りましょう!

「ゆっくり時間をかけて許してもらえばいい」

夫からはそう声をかけられた。

だから、私は毎日マイマイたちに話しかけて、赦しを請うている。
なにより自分を許せるように。

以前読んだ「奇妙な死刑囚」という黒人の冤罪を扱ったノンフィクションに、こんな言葉があった。

過去に思いをめぐらすことは、だれにだってある。あそこで右ではなく左に行っていたら、あの人ではなくこの人にしていたら、違う選択をしていたらどうなっていただろう…。別に監房に監禁されなくても、つらい過去を書き直そうとしたり、惨憺たる悲劇をなかったことにしようとしたり、おそろしい間違いを正そうとして何日もすごすことはあるだろう。災難や悲劇や不当な出来事は起こるものだ──だれの身にも。
そういうとき、私はこう信じたい。肝心なのは、そんな体験をしたあと自分がなにを選ぶかだ。なにを選ぶかによって、その後の人生は永遠に変わる、と。そう信じたい、心から。

「たかがカタツムリ二匹で何を大げさな」と感じる方がいても、それは至極当然のことだと思う。
…が、私にとっては大切な家族のような存在だった。

だからこそ、この経験のあとの自分が何を考え、何を選び、どこに進めばいいのか、ぐるぐるの渦の中に落ち込むのではなく、渦の外へ外へと向かって、少し時間をかけて考えていきたいと思っている。

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