歴史的経緯を追うこと ー森本あんり「寛容論の中世的本義と現代的誤解」

自分が当たり前に身につけている常識や価値観から、自由になる方法の一つは歴史的経緯を知ることだと思う。

少し長くなるけれど、森本あんりさんの講演を聞いてみよう。

我々は今日の社会のなかでさまざまな不寛容を目にします。我々の反応はまずそれらの人達を批難し、寛容になることを強制する。しかし、これは寛容という概念の深刻な矛盾となってしまう。

私たちの価値観のなかでは寛容というのは良いものであるとされている。しかし、普遍的に良いという価値と考えてよいのかどうか。もし寛容が西洋近代のリベラリズムに特徴的な原理であるならば、他の文化圏の人びとにとっては、それ自体が不寛容な寛容の押しつけになってしまう。

そこで私は不寛容の論理を正しく理解したいと思う。不寛容な人びとには不寛容であるだけの理由がある。

寛容は、不寛容と背中合わせで、程度の問題である。

寛容という言葉は、その概念が生まれた時と現代とではかなりかけ離れた意味として使われている。その出自を明らかにした上で、現代との異同を考えたい。

森本あんり「寛容論の中世的本義と現代的誤解」

学史研究は大変苦手だけれども、現在の事象だけ見ていては「不寛容な寛容の押しつけ」をしかねないからである。「不参加な参加」でも、「不平等な平等」でも言い換えはいくらでもできると思うけれど。

私の今の価値観が、相手の価値観が対立した時に、それが「いいこと」だと思うのはお互いさまである。「不参加」がいいと思う人も、「参加」がいいと思う人もいる。これを批難したり、強制していても何も生まれない。

「参加」がなぜいいと思うようになったのか、「不参加」がなぜいいと思うようになったのかを考え、お互いを理解していく必要があるのだと思う。そのためには歴史的経緯からはじめることがわかりやすい。

https://www.youtube.com/watch?v=etDogEygvcw&t=1027s


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